阪本順治 監督『顔』
マスクが生き方の
根底を変えてしまうのでは?
276時限目◎映画
堀間ロクなな
ウィズ・コロナ時代における「新しい生活様式」の象徴はマスクだろう。これからしばらくのあいだ、公共の場ではマスクをつけることが常識となりそうだ。そう言えば、昨今、マスクをつけた女性の見目麗しさに、ふと気づくことが多い。マスクの下はどれほど美人なのだろう、と想像を逞しくしていると、たまたま飲食などでマスクが外されることもあって、とたんに拍子抜けしたり……。いや、わたしは彼女たちをくさすつもりはなく、ことほどさようにマスクの装着を前提として日常の美意識が整いつつあることを指摘したかったのだ。
今後は、映画やドラマの登場人物もマスクをつけているのが当たり前となるのだろうか? それどころではない。いささか大袈裟に言うなら、「新しい生活様式」はわれわれの生き方の根底を変えてしまう可能性さえあるのではないか? そんな危惧を抱くのも、阪本順治監督の映画『顔』(2000年)の強烈なインパクトを思い起こしたからだ。
主人公は吉村正子(藤山直美)、35歳。母親が営む尼崎のクリーニング店で、日がなミシンを踏んで修繕の仕事にいそしんでいる。小さいころからドン臭くて、友だちもいなかったのが、そのまま図体だけ大きくなって、いまやほとんど引きこもり状態にあるのだった。そうしたところ、母親が突然死を遂げ、大阪でホステスをやっている妹が通夜に戻ってきて「お姉ちゃんのことがずっと恥ずかしかった」となじると、正子は逆上して絞め殺してしまう。取りあえず香典だけをバッグに入れて家をあとにしたところ、奇しくも阪神・淡路大震災が発生して、世上の大混乱のなかに姿を消すことができた。
正子は一夜の宿を求めたラブホテルで従業員として働くようになり、どこかうつろな社長から酒席に誘われたり自転車の乗り方を教わったりして過ごすうち、その社長が経営難から首吊り自殺して警察がやってくると、慌ただしく不慣れな自転車で遁走して転倒事故を起こす。ほうほうの態で九州方面の特急列車に乗り、紫色に腫れあがった顔をマスクで隠してこそこそと弁当をつつきはじめたとき、向かいの席の酔っ払いの男(佐藤浩市)からマスクを外すように促されて、正子は素直にしたがう。
その瞬間から、人生が一変するのだ。男は勤め先をリストラされた元銀行マンで、妻子が待つ実家へ帰ると告げ、あとを追うように正子も別府で下車する。そこで出会ったクラブのママ(大楠道代)に誘われるまま、店のカウンターに立ち、カラオケのマイクを握るようになって、にわかに生気を漲らせる正子――。ママの弟に鬱陶しがられたり、その弟の手引きで常連客と関係させられたりして、ひと筋縄ではいかない日々ながら、いつしか周囲が呆れるばかりにきれいになっていく。だが、破綻が訪れるまでに時間はかからなかった。ママの弟がかつてのヤクザ仲間に殺されて警察の捜査が入るなり、ふたたび逃亡を余儀なくされる。最後に、元銀行マンの男にこんな言葉を残して。
「約束してください、お別れを言う前に。月が西から昇ったら、うちと一緒になってください。もし叶わなくて生まれ変わって会えたら、またこの約束してください……」
正子は連絡船で離島へ渡ってひなびた漁村に潜り込むが、やがてテレビもさかんに指名手配の写真を取り上げて身元が割れてしまう。ついに7か月におよんだ逃走劇も幕を下ろすかと思われたとき、宵闇のなかを追跡する警官たちが浜辺で目にしたのは、はるかな海面に立つ白波で、それは正子が泳げもしないのに浮き輪にすがり自由をめざして沖へ遠のいていく姿だった。このうえなくぶざまでありながら、神々しいばかりの光芒をまとって……。
この映画の主人公は、1982年愛媛県松山市で同僚のホステスを殺害したのち、全国指名手配されながら約15年にわたって逃亡を続けた「福田和子」がモデルという。その間、彼女は美容整形を繰り返したことから「七つの顔を持つ女」と呼ばれたが、正子もまた、それまではミノムシのように小さな世界に縮こまって暮らしてきたのが、マスクを取り去って、まるで別人の晴れやかな顔を手に入れ、月が西から昇るように圧倒的な存在感を解き放った。それはおそらく、善悪の彼岸にあって、この世にただ一度だけ生まれ落ちた人間の本来の生き方なのだろう。
もしも「新しい生活様式」のもとでマスクをつけることが常態と化し、たとえ女性たちがそれなりの美意識によって意匠を凝らしたにせよ、しょせん正子がかなぐりすてたミノムシの世界でしかないはずだ。その結果、われわれが大きな世界に向かって自己を開くことをやめ、徐々に生き方の根底を矮小化させてしまうとしたら、コロナウイルスの感染よりも恐ろしい、とわたしは思う。
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