スコット・クーパー監督『荒野の誓い』

名作『駅馬車』の
続編にあたるロードムービー


321時限目◎映画



堀間ロクなな


 ジョン・フォード監督の『駅馬車』(1939年)は、それまでのドンパチの活劇に本格的な人間ドラマを持ち込んで、西部劇の新たなページを開いた映画とされている。インディアンとのあいだで抗争が繰り広げられていた1880年代、脱獄囚リンゴ・キッド(ジョン・ウェイン)や娼婦ダラス(クレア・トレヴァー)ら9人を乗せた駅馬車が、アメリカ大陸南西部のアリゾナ州からニューメキシコ州をめざす。1泊2日の行程のクライマックスは、ジェロニモが率いるアパッチ族の襲来で、凄まじい銃撃戦により乗客の賭博師が落命したものの、騎兵隊が駆けつけ絶体絶命の危地を脱する。こうして終着点に到達した人々はそれぞれの明日へ向かって歩みだすという結末は、この名作にふさわしいものだったろう。



 わたしが最近出会ったスコット・クーパー監督の『荒野の誓い』(2017年)は、『駅馬車』のドラマから約十年後の1892年、かれらが行き着いたニューメキシコ州を出発点とするもうひとつの旅のロードムービーだ。退役間近の騎兵隊大尉ジョー・ブロッカー(クリスチャン・ベール)は、収監中のシャイアン族の首長イエロー・ホーク(ウェス・ステュディ)とその家族を、カナダ国境に近いモンタナ州の居留地「熊の渓谷」まで送り届けるように命じられる。これまで死闘を重ねてきた宿敵の護衛とは受け入れがたい任務だったが、上官は大統領命令を盾に断固として従わせる。いつの間にか、国民世論は先住民への敵視から同情へと大きく舵を切ろうとしていたのだ。



 護送隊の一行はジョーの指揮下、うつ病を患う曹長や元奴隷の黒人伍長といった陰影の濃い面々が集まり、さらにはコマンチ族に夫と子どもを殺されて正気を失いかけた主婦ロザリー・クウェイド(ロザムンド・パイク)も合流し、首長の家族を併せて計11人の老若男女がはるか北方へと乗りだしていく。見渡すかぎり雄大で美しい自然のもと、かれらの周囲にはつねに血なまぐさい気配が漂い、ロザリーはみずからの家族を惨殺した連中への復讐が果たされたのち、自分は神を信じていることを口にして「信仰を失ったら、私に何が残る?」と問うと、ジョーは「だが、神はもう長らくこのあたりの状況が見えていないようだ」と応じる。旅は『聖書』が描くような神学的な色合いを帯びるのだ。



 その後も、女性たちが白人の毛皮商人どもに強姦目当てにさらわれたのを夜襲して奪い返したり、途上に立ち寄ったコロラド州の町でインディアン一家を不当に殺害した死刑囚の連行を求められて、その囚人が逃走を図って撃ち合いとなったり……と、不測の事態に見舞われるたびに、ひとり、またひとりと仲間が姿を消していく。一方で、当初は険しく対立していた宿敵イエロー・ホークとのあいだに交流が深まり、1週間あまりをかけてついに目的地に辿り着いたときには、末期がんで余命いくばくもない首長はロザリーに「あなたの魂は私のなかにいる」と伝え、また、ジョーは首長に向かって「過去に囚われるのはやめよう、私の一部はあなたとともに死ぬ」と語りかけて握手を交わす。



 だが、聖地「熊の渓谷」でも強欲な白人入植者一家の父親と息子たちが立ちはだかり、大統領の命令書を示しても意に介さず、ただちにおたがい銃口を向けあって力の行使だけが解決手段となる。最初に火を吹いたのはロザリーが手にしたライフルだ。それをきっかけにジョーも容赦ない銃弾を相手に浴びせかけ、またたく間に斃された息子たちを尻目に遁走しようとする父親に追いすがってナイフを一閃させると、老人の頭の皮を剥ぐのだった。もはや『聖書』の神が見捨てた地にあって、このときジョーとロザリーは内面の精神ばかりでなく、その外面の行動においても先住民の世界と一体化したことを意味するのだろう。



 しかし、ふたりにはその先の道のりがなかった。『駅馬車』のラストシーンでは、リンゴとダラスが荷馬車に乗って辺境の牧場へと去っていく。しかし、ジョーとロザリー、そして首長の家族でひとり生き残った少女の3人にとっては、もはやフロンティアはどこにもなく、「熊の渓谷」をあとにすると最新式の鉄道でシカゴへ向かうしかなかった。当時、その大都市では、コロンブスのアメリカ大陸発見400周年を記念する万国博覧会の準備にいそしんでいたはずだから、まさしく西部開拓時代の終焉を象徴する場所だったろう。かくして、この映画は『駅馬車』のみごとな続編として、それが開いた西部劇の新たなページをここに閉じてみせたようにわたしの目には映るのだ。



 もうひとつ蛇足を承知でつけ加えたい。およそ80年前、映画の原題STAGECOACHの日本語タイトルが『地獄馬車』となりかけたのを阻止して、『駅馬車』と改めたのはユナイテッド・アーティスツ日本支社宣伝部の淀川長治だったことはよく知られている。もし安っぽいタイトルのままだったら、日本においてただちに一流の作品と評価されたかどうか。その教訓に学ぶなら、原題HOSTILESを『荒野の誓い』という、かつてのマカロニウェスタンまがいの邦題にしたのには首を傾げざるをえない。当たり前に『宿敵』としたほうがより多くのファンの注目を集めたと思うのだが、どうだろうか?


一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍