石井輝男 監督『網走番外地』

どうして「脱走モノ」の
映画は影をひそめたのか?


324時限目◎映画



堀間ロクなな


 映画には「脱走モノ」とも名づけるべきジャンルがある。多言は不要だろう、監獄・刑務所や捕虜収容所からの脱走がテーマの作品たちだ。厳重な監視体制にひるむことなく、あの手この手の術策によって裏をかき、ついに外界へ逃れたあとはしぶとい追跡をかわしながら、はるか彼方の自由をめざしてひた走る――。こうした出来事は現実には滅多に起きないにもかかわらず、スクリーンでしばしば描かれてきたのは、よほど映画というメディアと相性がいいからだろう。



 理由を考えてみたい。ドラマの前段では、薄暗い閉鎖空間が舞台だ。そこで囚われの男たちは横暴な所長や看守を前に屈辱の日々を過ごし、やがて単独だったり徒党を組んだりして脱走の実現に立ち向かっていく。決行のときを迎えた後段では、一転して見渡すかぎりの天地が広がり、ひたすら遁走していく先に待ち受けているのは、永遠の自由か非業の死か。こうした内と外、暗と明、閉塞と解放の極端な対比がスクリーンを際立たせ、登場人物といっしょに観客も手に汗握って引きずりまわされるのだろう。



 日本映画でこうした「脱走モノ」の代表作を挙げれば、石井輝男監督の『網走番外地』(1965年)だろう。これは、スタンリー・クレイマー監督によるハリウッド映画『手錠のまゝの脱獄』(1958年)を下敷きに、低予算でつくられたモノクロ映画だったが、予想以上の興行的成功を見て、つぎからはカラー映画として以後7年間にシリーズ計18作が制作されることとなった。



 最果ての地、北海道の網走駅に降り立った橘真一(高倉健)は、養父と折り合いが悪く母親と妹を残して出奔したのち、ヤクザの世界に入って傷害事件を起こして懲役3年を科された新入りの囚人だった。刑務所で同房となったのは、安倍徹、嵐寛寿郎、田中邦衛……といった手練れの役者たちが扮したひとクセもふたクセもある連中だ。しょっちゅう喧嘩の絶えない一方で、労役の伐採作業に明け暮れる月日が重なっていくうちに交遊も生じて、逆にそれが仇となり、橘は妻木保護司(丹波哲郎)の尽力もあって保釈まであと半年、そうしたら病床の母親のもとへ駆けつけたいというタイミングで、にわかに集団脱走計画に巻き込まれる。ずさんな計画はあえなく頓挫したものの、収まりのつかない血気に逸った者どもが直後に伐採地へ向かうトラックから飛び降りて逃げだした。



 橘もまた、手錠でつながれた権田権三(南原宏治)が一味に加わったことで脱走せざるをえない羽目に。まわりの仲間はつぎつぎと武装した看守に捕まったり、湿原に足を踏み入れて水中に没したりするなか、いつしかふたりだけが広大な雪原をさまよっていた。空腹を抱えて、権田はそこが妻木保護司の営む牧場と知ったうえで押し入って夫人を傷つけたことから、妻木も憤怒に駆られ猟銃を手にして追いかける。たがいに反発しあうふたりは破天荒なトロッコでの逃走劇を繰り広げたあげく、やがて鉄道と出会うと、そのレールに手錠の鎖を這わせ、驀進してきた汽車の車輪に切断させて、橘は「やっと自由になったぞ、おっかさん」と叫ぶ。しかし、権田のほうは弾みで大怪我を負って倒れ、いったんは立ち去りかけた橘だったが、相手がうわごとで「おっかさん」と呟くのを耳に留め、胸に秘めていた思いは同じだったことを知ると救命のために背負ったところへ、妻木が立ちはだかり、すべての事情が判明して和解に至るのだった……。



 少々煩わしいぐらいにストーリーを辿ったのは他でもない、ここからこのジャンルの映画が人気を博するもうひとつの理由が浮かびあがってくるからだ。そう、ドラマの組み立て上、前面に女性が一切出てこないのである。たとえどれほど美貌を誇る女優であってもここに役柄を見つけることは不可能だろう。つまり、「脱走モノ」とは、男同士の対立・葛藤から協調・和解まで徹頭徹尾、男たちだけによって自由が希求されるドラマであり、それが観客を惹きつける最大の誘因のはずだ。



 一見、強面の男たちが犇めいていながら、もしここに女性がひとりでも立ち入って大きな顔をはじめたなら、このナイーヴな世界はあっけなく崩れ去ってしまうだろう。それが証拠に、たとえば女囚たちが主役となって集団脱走を企てるといった筋書きの映画はまったく聞かないではないか。それはそれでスリリングな展開となるように思うのだけれども。



 さらに疑問がある。前述したとおり『網走番外地』シリーズが公開されたのは、最初の東京オリンピックや大阪万国博覧会が開催されたころで、戦後日本が世界に向けて大きく開かれたという晴れがましい時代に、なんだって「脱走モノ」が世間を熱狂させたのだろう? そしてまた、この手の映画がいまやすっかり影をひそめたように見受けられるのは一体、どうしたわけか? めざましいデジタル技術の進歩によって社会の隅々まで監視体制が張り巡らされた現在、もはや刑務所の内と外の基本的な構図に差異はなくなり、いつの間にか、われわれが自由を希求することを止めてしまったとすれば、それこそが恐るべき事態に違いない。


一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍