私の文化大革命記憶
黄 文葦
筆者は文化大革命の期間に生まれたので、名前の中、「文」が付けられた。小さい頃、初めて教われた言葉は「革命」であった。幼少の頃のおもちゃは、家の中の数十枚の毛沢東バッジ。本来はそれがいけないことであったはずだが、当時の言い伝えでは、それは偉大なリーダーに対する大きな無礼であろう。
昔、子供のおもちゃが極めて少なかったので、毛沢東バッジが1つ1つサイズやデザインが異なるので、並んでみるのは面白そうであった。気に入りバッジを自分の服につけたりしていた。 私は家の中で毛沢東バッジを遊んでいたのを、両親が見て見ぬふりをする…現在、ネットオークションで、毛沢東バッジが出されている。高価なものもあるし、手ごろな価格のものもある。昔、自分のおもちゃの毛沢東バッジはどこ置いていたのか、なかなか思い出せない…
ある日、家の中、「事件」が起きた。整理整頓をしていた母親が、毛沢東の石膏像を移動させる際、石膏像は高所から落下して、片腕を骨折した。両親は顔面蒼白になるほどの恐怖を感じていた。あの狂った時代に、あれは非常に深刻な事故で、「反革命罪」になりかねない。両親はその後、石膏像をこっそり包んで隠しておく…
私たち家族にとって、文化大革命で最も悲惨だったのは、50代だった祖父の自殺。私にはこのことを知るまでに何年もかかった。その際、大人たちが幼い子供に悲しい出来事を教えてあげなかった。祖父は若い頃、国民党の税関で働き、その後、共産党の天下になってから、自分の小さな茶店を開いていた。国民党の機関で働いていた経験が証拠となり批判され、祖父は拷問に耐えかねて川に身を投げたという…
私は祖父とはあまり一緒にいられなかったし、小さかったので、直接話を聞くこともできなかった、残念だ。祖父はきっと自分の仕事を誇りに思っていたと思う。
文化大革命では、多くの家庭が、私の家族と同じような悲惨な出来事を経験した。中国があの悲劇を繰り返さないことを願っている。文化大革命から55年経った今、若い世代が文化大革命の教訓を理解するように…人間一人一人が自分の自由、尊厳、独立した人格を持っていることがどれだけ大事なのか、わかってほしい。
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