相米慎二 監督『風花』

先進国から落ちこぼれた
日本の精神風景


339時限目◎映画



堀間ロクなな


 ひと言でいうなら、だらしない。とめどなくだらしない。相米慎二監督の遺作『風花』(2000年)は、そんな男女の模様を描く。過去の映画がたったいまつくられたかのように、現在の状況に対して生々しいメッセージを発信することがあるが、わたしの見るところ、約20年前のこの作品もそうしたひとつだ。



 ファーストシーンでは、都内の公園の満開の桜の下で、男と女がもつれあったまま目を覚ます。男(浅野忠信)は文部省のエリート官僚だが、酒癖が悪く、先日酔っ払ってコンビニで万引きを働いたことがマスコミに報じられて謹慎中の身の上。女(小泉今日子)は三十路のいまも、交通事故死した夫の借金を背負って春をひさいでいる風俗嬢。ふたりは前の晩にピンク・サロンで出会ったのち、泥酔した男を女が介抱しながら公園で夜を明かしたのだった。いっしょに北海道へ出かけることを約束して――。女にとっては、5年前に幼い娘を母親に預けて東京へ出奔して以来の帰郷だったが、その母親から生活を改めないかぎり娘に会わせないと告げられる。一方の男には、上司から連絡が入って、別の水商売の女とのトラブルを理由に自主退職するよう言い渡される。もはやどこへ帰るアテもなくなった男と女はピンク色のレンタカーで、まだ春の訪れにはほど遠い積雪の大地をめぐるうち、少しずつ死の誘惑に囚われていく。ひなびた温泉宿に泊まった夜、女が別の客に娼婦として扱われるのを男が受け入れたあとで、女はひとり死に場所を求めて原野へ踏みだした。



 いい年格好をして、かれらは何をやっているのだろう? たがいに饒舌でありながら少しも意味をなさず、からだが触れあっても欲望が兆すことはない。だらだらと続く道行きは恋愛感情と無縁のままで、死についてもそれぞれが身勝手に意識するだけで心中や情死といった高ぶりには至らない。ひたすらだらしなくさまよい、自分を自分で言いくるめては、そんな自分をいっそうだらしなく嫌悪するばかり。



 こうした気分は、確かに映画が制作された当時の、空前のバブル経済崩壊後に続く「失われた10年」のものに違いない。男は一流大学を卒業して国家公務員になったところで、使命感などなく、アルコールと女にウツツを抜かす。女は事情があってとはいえ、子どもを放りだして、男どもを渡り歩きながら自責の念に駆られることもない。かれらの寒々しい姿は、もはやだれもが未来を見失っていた「就職氷河期」の空気を思い起こさせる。



 と同時に、それから約20年が経過してみると、現在の日本にわだかまる気分も予告していたように思えるのだ。「失われた10年」が、ずるずると「失われた20年」「失われた30年」と伸びていくなか、日本の平均賃金はずっと横ばいを辿り、いまやOECD(経済協力開発機構)加盟35か国中22位の下位にあり、欧米主要国は言うにおよばず、とっくに韓国にも追い抜かれてしまった。また、この間、東日本大震災では東電福島第一原発の事故が科学技術立国の神話を打ち砕き、現下の新型コロナ感染症の流行でもワクチン開発力の不足や医療体制の脆弱さを露呈させた。つまるところ、日本はいつしか先進国の座から落ちこぼれて、いわば停滞国の状態をうろうろしてきたのが実情だろう。『風花』のエリート官僚と風俗嬢のだらしない交流は、そうした日本の精神風景を先取りしていた。



 こんなふうに考えると、なるほど納得のいくことも多い。総選挙では相も変わらず二世・三世の世襲が幅を利かせ、世界の注目を尻目に女性議員の比率はいまだ最低水準のままという事態も、しょせん停滞国のイナカ議会と見なせば了解がつく。あるいは、お笑い芸人ばかりが跋扈して視聴者を見下したかのようなテレビ放送も、停滞国のローカル番組と受け止めれば腹も立たない。こうした政治やマスコミの体たらくを目の当たりにするにつけ、日本がふたたび先進国に返り咲くのは至難の道のりだろう。



 もっとも、わたしは停滞国の現状に唾したいわけではない。この映画のクライマックスにおいて、ついに女が自殺を行おうとするとき、タイトルとなった「風花(かざはな)」の意味する雪の細やかな結晶が大気をきらめかせるなかで、彼女はジャケットを脱ぎ捨て川岸に立つと、おもむろに手足を舞わせる。その天地のはざまにみずからを投げ出した振る舞いは、あたかも『古事記』神代巻の光景を眺めるようで(小泉今日子の凄まじいオーラ!)、気づいたときには滂沱の涙がこぼれていた。しのぎを削る先進国ではなく、時空の止まった停滞国ならではの神秘ではないか。



 そこへ駆けつけた男が女を救出すると、初めてしっかりと抱きあい、どうやら女の母親の手元から娘を引き取って3人で北海道の地に暮らすことを決めたらしい、なんら生計のメドさえ立っていないにもかかわらず。そんなふうに最後までだらしないふたりの姿に、ふと魅せられるわたしがいるのである。



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍