本居宣長 著『直比霊』

われわれの世界観の
根っこに棲んでいるもの


340時限目◎本



堀間ロクなな


 この日本という国に生まれ、日本語を母国語として育ち、標準的な学校教育を受けてから社会へ出て、いま人生の折り返し点を過ぎてみると、われわれの世界観の根っこにはふだん自覚しないまでも、ひとりの思想家が棲んでいることを思う。国学の大成者、本居宣長だ。そこで、サラリーマンを卒業して悠々自適の生活となったら腰を据えて『古事記伝』に取り組もうと、もう10年以上前に筑摩書房版全集の古書を買い求めて準備していたところ、安倍内閣が年金受給年齢を引き上げたため、いまだに仕事に汲々として着手できずにいる。



 そんな欲求不満のなか、せめてもと『直比霊(なおびのみたま)』をひもといた。これは1771年(明和8年)に『古事記伝』の総論として執筆されたものだ。宣長といえば、「もののあはれ」という奥床しいフレーズで日本人の情緒の特質を指し示したことが知られているけれど、上記の全集で15ページほどの、「此篇(このくだり)は、道といふことの論(あげつら)ひなり」の副題を持つ論文はずいぶんと味わいが異なる。もし料理に譬えるなら和食というより、とびきり香辛料の利いたカレーのような……。



 日本には古来、われわれの歩く道があるだけだ、と宣長は言う。そこにものの道理やらひとの生き方やらを重ねあわせて、あれこれの道と言挙げするのは外国(中国大陸)の習いで、そこには定まった君主が存在せず、つねに上下の人々がハエのように騒ぎまわっている乱脈な風土のもとでの話に過ぎないとして、こんなふうに論を進める。



 「異国(あだしくに)は、本より主の定まれるがなければ、たゞ人もたちまち王になり、王もたちまちたゞ人にもなり、亡びうせもする、古へよりの風俗(ならはし)なり。さて国を取らむと謀りて、えとらざる者をば、賊といひて賤(いや)しめにくみ、取り得たる者をば、聖人といひて尊(たふと)み仰ぐめり、さればいはゆる聖人も、たゞ賊の為(し)とげたる者にぞ有りける」



 つまり、君主も平民もただのめぐりあわせで、聖人と称したところでしょせん国を奪い取った盗賊のたぐいでしかないという。日本はまったく事情を異にする。天照大御神の委任によって、天地のはじめから治めてこられた天皇は、そんな賤しい国々の王と同列の存在ではなく、月日の照らすかぎり大君が動くことのない安定した国であるにもかかわらず、学者たちが外国をまねてさかんに理屈がましい道を持ち込んで今日に至った。そうした言説に惑わされてはならない、わが国の古道とはごくシンプルなのだ、と力説する。



 「世中(よのなか)に生としいける物、鳥虫に至るまでも、己が身のほどほどに、必ずあるべきかぎりのわざは、産巣日(むすび)神のみたまに頼て、おのづからよく知りてなすものなる中にも、人は殊にすぐれたる物とうまれつれば、又しか勝(すぐ)れたるほどにかなひて、知るべきかぎりはしり、すべきかぎりはする物なるに、いかでか其の上をなほ強(しひ)ることのあらむ。教へによらずては、えしらずえせぬものといはば、人は鳥虫におとれりとやせむ」



 日本では神々の霊力により、鳥や虫までが分相応の生き方をわきまえているのだから、まして人間であれば外来の道など押しつけなくても知るべきことは知っているという。声高なアジテーションではなく、諄々と噛んで含めるような調子だけに、読み進むにつれて舌の痺れるような辛さが広がり、しかもその刺激がクセになってしまう感覚に襲われる。日本は特別な国なのだ、と――。



 小林秀雄は著作『本居宣長』(1977年)のなかで、『直比霊』について「端的に言って了えば、宣長の説く古道の説というものは、特に道を立てて、道を説くということが全くなかったところに、我が国の古道があったという逆説の上に成り立っていた」と書いている。この文章自体、一種の逆説めいた印象があるけれども、ことはもっと深刻なのかもしれない。宣長の国学が江戸幕府を瓦解へ導いた19世紀、ドイツに現れたフリードリヒ・ニーチェは、古典文献学の研究から出発して『悲劇の誕生』(1872年)を著し、古代ギリシアを理想化するあまり、みずからが生きる近代ブルジョア社会の徹底的な糾弾者となっていった。洋の東西を問わず、古典の探求はときとして逆説という灼熱のマグマを噴出させるのだろう。



 日本という国の成り立ちを宣長が解き明かして以来、われわれはずっとその壮大なビジョンを足掛かりとしてこの島国で暮らしてきたのではないか。明治から昭和にわたる中国大陸との歴史はもちろんのこと、令和の現在でも中国や韓国との向きあい方において、いまだに250年の歳月を隔て『直比霊』の木霊が聞き取れる気がするのだ。


一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍