キム・テギュン監督『クロッシング』

地球上でわれわれから
最も遠い地の光景


342時限目◎映画



堀間ロクなな


 前回のブログで取り上げたロリン・マゼール指揮によるニューヨーク・フィルの平壌コンサートが開かれたのと同じ2008年、韓国でキム・テギュン監督の『クロッシング』が公開された。北朝鮮から逃れてきた脱北者たちの現実を伝えるこの映画は、だれしも苦い涙なくしては見られないだろう。



 北朝鮮・咸鏡南道の炭鉱で働く元サッカー選手のキム・ヨンス(チャ・インピョ)は、妻ヨンハ(ソ・ヨンファ)と11歳の息子ジュニ(シン・ミョンチョル)の三人家族で、貧しくとものどかに暮らしていた。ところが、妊娠中のヨンハが栄養失調のせいで結核に罹り、村の医師から特効薬がここにはないことを告げられると、それを求めてヨンスはひそかに単身、豆満江を渡り中国・延辺の朝鮮族自治州へ辿り着く。しかし、故郷の家ではヨンハが息を引き取り、あとに残されたジュニは、幼馴染みの少女ミソン(チュ・ダヨン)といっしょに「反動分子のガキ」として強制収容所で重労働を強いられる。やがてミソンの肌は爛れてウジが湧き、生命の炎が消えていくとき、ジュニはこう語りかける。



 「このまま天国まで行けたらいいね」



 一方、ヨンスは中国の公安当局に追われてドイツ大使館に駆け込んだことから、帰国の道は閉ざされ、他の脱北者とともに韓国に迎え入れられる。ソウルでキリスト教系の支援団体が仕事を斡旋するとともに、妻子を呼び寄せるための調査も行った結果、すでに妻が死去したことが判明して、ヨンスは「イエスは南朝鮮にしかいないのか! どうして北朝鮮を見放すのか!」と叫ぶ。このうえは息子との再会を期して、支援団体が裏金を使って強制収容所のジュニを救い出すと、中国領内を車両で横断して、モンゴル国境を超えたのちピックアップするという計画にしたがって、ヨンスも現地へ向かう。しかし、わずかな手違いからジュニは広大無辺の砂漠をひとりさまよい、ついに力尽きて……。



 ごく平凡な家族が幸せを望むという当たり前のことが、国家の論理に阻まれ、およそ当たり前ではないドラマを展開させていくさまに目を凝らす。さらに、まばたきも忘れるぐらい見入ってしまうのは、そこに描かれる北朝鮮の辺境の村の光景だ。まるでドキュメンタリーのようなシーンの数々は、この映画制作に30人以上の脱北者がメインスタッフとして加わって忠実に再現されたものだという。



 おそらく、北朝鮮とは地球上でわれわれから最も遠い地ではないか。21世紀のいま、北極や南極であれ、エヴェレストの頂上であれ、アマゾンの奥地であれ、日本海溝の深海であれ……、地球のみならず、火星の大地さえも探査ロボット車によって、その実際の光景を目の当たりにすることができる。だが、独裁者が支配するこの小さな国ばかりは、海外メディアの侵入を頑なに制限して禁断のヴェールに覆われたままだ。したがって、映画のためのセットとは言え、現実にその地で暮らした人々の証言にもとづくだけにきわめて貴重な映像資料だろう。



 決して、悲惨なだけではない。炭鉱労働者の住む漆喰づくりの長屋には、それぞれの家族の温もりが宿っている。地の底から汗だくで真っ黒になって帰ってきたヨンスは、石炭の粉塵を洗い流すと、ジュニと手づくりのサッカーボールを蹴りあう。いきなりやってきたにわか雨のあとには、鮮やかな緑とかなたに広がる山並みがまぶしく輝く。その光景は、モンゴル砂漠の満天の星の下で、ジュニが短い一生を終えようとするときに脳裏を駆けめぐるものでもあった。



 あれは何かの祝日だったろうか。仕事も学校も休みで、近所の住人が総出で川べりに集合して、子どもらはやみくもにはしゃぎまわり、ジュニも両手を広げて白い花のようなミソンと笑いあっている。男たちは肉や野菜を焼きながら安酒をあおり、女たちはアコーディオンの演奏に合わせてダンスをしている。飢餓にさらされながらも、また、そうした日常のもとだったからこそ、束の間にせよ、ヨンスもヨンハもだれもかれもが心底笑いあい、その笑い声は独裁国家の空にも高らかに届いたはずだ。モノクロームで描かれる映画のラストシーンは、ジュニがついに目の当たりにした天国の光景と信じたい。



 わたしは考える。ただひとり生きのびたヨンスは、民主主義と資本主義のソウルで妻子の知らなかった豊かな衣食住を得て、キリスト教の信仰に囲まれながら安全に暮らしはじめるが、だからと言って、北朝鮮の辺境の地にあった天国の光景とふたたび出会うことは叶うだろうか。いや、朝鮮半島にかぎった話ではない。この日本列島においても、ともに暮らす人々がおたがいに心置きなく笑いあえる光景はいまどこに見つかるだろう? われわれは何を手に入れて、何を手放してしまったのか。この脱北者の映画は、そんな問いも突きつけてくるのである。



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍