「怒り」でも一種の心の「芸」
スペシャル「私の突然変異」
黄 文葦
作家村田紗耶香さんの小説が好きだ。ブラックユーモアの味が濃厚だ。その中、『変容』という短編小説が面白い。社会問題・人の感情を誇張して描く。小説の中、こんな感情を表現している。人間には「喜怒哀楽」の感情を持つ。喜び・怒り・悲しみ・楽しみの四つの情のこと。しかし、人間は社会に適するためにいつも我慢する、今の若者には「怒り」がなくなった…最終的に、主人公は「怒りの花を咲かせることは人生の目的なのだ、やはり怒りがないなんて絶対に間違っている」と宣言した。
実のところ、社会の不適合者とみられる人間が「本当の自分を正直に生きる」かも知れない。社会が発展し、都市化が進化し、暮らしはますます便利になっているけれど、人間の感情表現が退化する恐れがある。コロナの中、密を避けるせいで、人間の間の疎外がますます深刻していくだろう。
「怒り」について、一つ質問を聴きたい。皆さんは怒りを爆発してすっきりした経験がありますか。私にはあった。自分の性格と言えば、無口、静かに、話すより聞く力を持つと思うけれど、フリージャーナリストの仕事をしている以上に、時には誰かと時事問題を話していて議論が白熱した時がある。
十数年前、新聞社の職場で上司に怒った経験がある。中国メディアで経験を積んだ上司が、中国のメディアの管理スタイルを日本に移植したらしい。あんなスタイルは編集者と記者の思想の独立性と自律性が奪われると考えていた。理不尽と思われる要求を突きつけられたとき、「こんな仕事はしたくない!」怒りが爆発した。そのまま仕事を辞めてしまった。個人の力では組織を変えることができないとき、唯一の選択肢は離れることである。その後、フリージャーナリストの道を選んだ。
その「怒り」は心の突然の変異だと自覚した。事後、そんな怒らなくてもいいと反省したのが、やはり、自分のこころの声を傾けることができたとすっきりした。「怒り」は一種の心の「芸」でもあると考えていた。快刀乱麻を断つ「怒り」によって、効率的に本当の自分を見つけられる。その「突然の変異」がなかったら、今の自分がいない。
しかし、現在、めったに怒らない。相手と意見が相違する際、避ける傾向である。それは年のせいであるかも知れない。怒りの感情にはパワーが必要だ。
逆に、誰かに怒られるようなことがあると、その怒りに耳を傾けるに値するシグナルだと思う。怒りの原因を特定し、相手の変異の受け止め方を判断する。怒りは時に、永続的な進化を生み出す強力なツールとなる。
律義な日本人と比べて、中国人は怒りっぽいと言うイメージがあるだろう。しかし、中国人は怒った後に仲直りしやすいという利点もある。日本人は確かに我慢がつよい。長い自粛の中、日本人はますます我慢強くなってストレスが溜まりやすいではないか、と心配しなくてはならない。たまに、「変異」して、怒りを出してもいいだろう。人間社会の「喜怒哀楽」を味わうことが人間の使命である。
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