『孫子』

カーリングの要諦が
ここに明かされている?


370時限目◎本



堀間ロクなな


 今回の北京冬季オリンピックで、わたしがいちばん熱中したのはカーリング女子の日本代表ロコ・ソラーレの戦いぶりだった。もっともご多分に漏れず、この機会に初めてゲームの仕組みやルールを知ったクチに過ぎないけれど、たまたまテレビの実況中継で接したのが、予選リーグのデンマーク、ROC(ロシア・オリンピック委員会)、アメリカ、準決勝のスイス、決勝のイギリスと、最後の決勝以外はすべて日本チームの勝ち試合だったこともあり、いっそう気分が高ぶったのだろう。



 そんなにわかファンの立場で、この競技の特質をずばり指摘するなら、他のたいていのスポーツが血道を上げている速さ、高さ、回転、距離……といった物理的競争に対して、潔く背を向けている点だ。カーリングがめざすのはそうした窮屈な目標ではない。敵味方双方の選手4人がひとり2投ずつストーンを放って、たがいに進路をふさいだり、ぶつけて移動させたりの駆け引きをしながら、ハウスの中心に最も近いポジションを獲得しようとする。もちろん、そこには想像もつかないほどの研ぎ澄まされた精神と筋肉の連携があるはずだが、傍目にはおよそギスギスしたところのない、のどかな雰囲気に満たされているのが好ましい。この競技にかぎっては、選手が不慮の大怪我に見舞われることも、あとでドーピング疑惑をかけられることも考えにくいから、心安んじて楽しめるのだ。



 と同時に、世間のどこにもありそうな顔立ちの女性たちが繰り広げる氷上の戦いは、はじまったとたん刻々と様相が変化していって一瞬たりとも目を離せない。小石を池に放り込むたびに水面がつぎつぎと模様を連鎖させるかのような、ごく単純でありながらどこまでも複雑なこのせめぎあいは一体、なんだろう? 古来の兵法指南書『孫子』の「虚実篇」には、こんな一節がある。



 「兵を形(あらわ)すの極みは、无形(むけい)に至る。无形なれば、則ち深間も窺うこと能わざるなり。智者も謀ること能わざるなり。形に因りて勝を衆に錯(お)くも、衆は知ること能わず。人は皆な我が制形を知るも、勝つ所以の者は知る可からず。故に其の戦い勝つや復(くりかえ)さずして、形に無窮に応ず」



 わたしなりに読み解いてみよう。敵味方の戦いで取るべき形の極地は、無形に到達することだ。無形ならば、敵がいくら目を凝らそうとも見て取れず、知謀をめぐらせても推し測れない。その形によって勝ちを収めてもひとは過程がわからず、勝ちを収めたことは知りえてもその由来はわからないままだ。したがって、勝ちのパターンには繰り返しがなく、双方の形に応じて無限に変化していくだけである――。



 すなわち、敵味方の戦いにおいて勝敗の行方は人知を超えており、あらかじめ勝つための形をつくることはできない。むしろ重要なのは形をつくらないことで、あとは戦いの状況に合わせてどこまでも柔軟に対応していく姿勢こそが求められるのだ。



 ここに明かされているのは、文字どおりカーリングの要諦ではないか。氷上において、リード・吉田夕梨花、セカンド・鈴木夕湖、サード・吉田知那美、スキップ・藤沢五月の4人がさかんに声を発しながら取り組んでいたのは、こうした戦いだった。とりわけ、予選でいったん敗北を喫した強豪スイスに翌日の準決勝でふたたび立ち向かい、後攻の第五エンドで1点ビハインドのなか、藤沢がハウス内の相手のストーンをふたつ弾くショットを立て続けに決めて、一挙4点を得て形勢逆転したのは、まさに「形に無窮に応ず」の結果だろう。彼女たちが実践していたのは、スポーツというより兵法に近かったのである。



 『孫子』は前段のあとにこう続ける。



 「夫(そ)れ兵の形は水に象(かたど)る。水の行は高きを避けて下(ひく)きに走る。兵の勝は実を避けて虚を撃つ。故に水は地に因りて行を制し、兵は敵に因りて勝を制す」



 論旨明快、とくに付言の必要はあるまい。目下、ロシアのプーチン大統領が強大な武力によってウクライナ侵攻を企てながら、どうやら思うにまかせない戦いを強いられているらしい理由も、この文章は教えているように見えるのだが、どうだろうか?


一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍