リチャード・フライシャー監督『ミクロの決死圏』

創造主の領域へ
人類が立ち入ったら


378時限目◎映画



堀間ロクなな


 60歳を過ぎてから毎年、人間ドックにかかるのが習いとなっている。そのたびに胃カメラ(上部消化管内視鏡)を呑むのだが、こればかりはいくらやっても一向に慣れることがない。緊張と苦悶のあまり全身が硬直するという事態もさりながら、それ以上に、検査中のモニター画面に刻々と現れる光景にはいつも目を見張らされて、とめどない感動が込み上げてくるからだ。



 わたしの喉頭・食道から胃・十二指腸にかけての、この美しさはどうしたことだろう! 淡い紅色を帯びた粘膜がつややかに光り輝いている。厳密には、食物が口から入って肛門から出ていくまでの消化器官は体内であっても、ちくわの穴のようなもので、外界と接した面だとされるが、それにしては年齢相応にすっかりしなびた皮膚と較べてみずみずしく蠢いている様子がいじらしい。その滑らかな質感は水中生物を想起させるもので、われわれのルーツが海洋にあることをいまさらながら実感させるのだ。



 リチャード・フライシャー監督のSF映画『ミクロの決死圏』(1966年)は、こうした胃カメラがまだ実用化される以前につくられている。すでにソ連ではガガーリンによる初の有人宇宙飛行(1961年)が成功して、その「地球は青かった」という名言のとおり、人類は地球を眺めることを実現したものの、みずからの体内については死骸を解剖したり手術で患部を切り開いたりするだけで、ありのままに眺める手段はいまだに存在しなかった。だからこそ、この作品が世界的な大ヒットを記録したのだろう。



 率直に言って、ストーリーの枠組みは他愛もない。冷戦さなかのアメリカ軍部は重要機密の研究として、あらゆるものをミクロ化する技術開発に取り組んでいた。そのさなか、カギを握る科学者が敵国の襲撃を受けて脳の深部に重傷を負ってしまい、情報部のグラント(スティーヴン・ボイド)は医師ら4名とともに潜水艇に乗り込み、細菌のサイズとなって注射器で動脈に送り込まれ、損傷個所へ向かって治療することになる。ただし、現状の技術ではミニチュアの効果はわずか60分間しか続かない……。



 こうしてめくるめくアドヴェンチャーがはじまるのだが、その映像のスケールは同時期のスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(1968年)の足元にもおよばないレヴェルだ。にもかかわらず、スクリーンに目が釘付けになるのは、ひとえにその舞台が生身の人体だからに他ならない。血液中で行われるガス交換の精妙きわまりない場面を前にして、医療の責任者であるデュヴァル博士(アーサー・ケネディ)は思わず口走る。



 「ここに創造主の意思を感じないか?」



 そうなのだ。かつてみずからの体内をありのままに眺めることができなかった時代、それはたんなるブラックボックスではなく、神の被造物として与えられた神秘だった。だから、もしその領分に人間がいたずらに手を伸ばそうものなら、メアリ夫人が『フランケンシュタイン』(1818年)に描いたように無惨に自滅するしかなかったろう。この映画でも、いよいよ時間切れが迫るなかで人間たちは仲間割れを起こし、無神論者のマイケルズ博士(ドナルド・プレザンス)は潜水艇を乗っ取ろうとして、突如襲来した白血球にむさぼり食われてしまう……。



 胃カメラという器械の発明は、そうした創造主と人類のあいだの険しい対立に小さいながらも風穴を開けたのに違いない。わたしはベッドに横たわって、涙と唾液でぐちゃぐちゃの顔をモニターに向けながら感慨に耽らずにはいられないのだ。ここに映しだされているのは自分の消化器官であるだけでなく、生命誕生から35億年を経て、創造主と人類が和解の手を結んだ光景でもある、と――。



 え、検査の結果? はい、後日、人間ドックから届いた報告書の上部消化管の欄には、胃食道接合部逆流性食道炎、中部食道食道炎疑い、前庭部萎縮性胃炎、上十二指腸角Brunner腺腫の記載があって、このうちふたつめの食道炎疑いに関し、サンプルを採取して病理組織検査を行ったところ「悪性所見なし」と添え書きされていて、ひとまず安堵した次第。人類の立ち入る領域が拡大すれば、そのぶんだけ心配の種も拡大するということだろう。



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍