林真理子 著『不機嫌な果実』

新型コロナ禍で
女性の性欲の行方は?


385時限目◎本



堀間ロクなな


 まだバブル景気の余燼がくすぶっていたころ、林真理子の『不機嫌な果実』(1996年)は、「夫以外の男とのセックスは、どうしてこんなに楽しいのだろうか」というあからさまな謳い文句でベストセラーを記録した。不倫小説の金字塔といわれ、ただちに映画になったほか、1997年と2016年には鳴り物入りでテレビドラマ化されている。主人公の水越麻也子は32歳、倦怠期の夫を尻目に、かつて関係を持ったことのある大手広告代理店の野村に電話して、久しぶりに再会した相手と2度目の食事のあとに情事へと向かう。その胸中がこんなふうに描かれる。



 こんな気持ちよい夜に、なにも自分から幕をひくことはなかった。もう少し早く酔いがまわればよいと麻也子は思う。ふわりと体が揺れる。その揺れに任せてどこかへ運ばれ、そこがホテルのベッドというのは悪くない。迷うこともなく、駆け引きもなく、いちばん肝心なところへたどりつく……



 いかにも三十路の女性の淫靡な火照りが伝わってくるが、あえて引用したのは、こうした心理表現がいまではずいぶんと遠く感じられるからだ。それは時代の違いというより、現在のわれわれが新型コロナ禍を経験してしまったからではないかと思う。



 わたしにとって不思議だったのは、テレビ・新聞では感染防止策をめぐってさまざまな業界の混乱ぶりが報じられ、それはキャバクラやパチンコにまでおよんだにもかかわらず、なぜかラブホテルのたぐいに関しては口を閉ざしたことだ。しかし、他人との密着の回避やソーシャル・ディスタンスの確保といった至上命題は、この手の施設にとってきわめて重大な事態をもたらしたろう。もしも、おたがいにマスクをつけてアクリル板越しでなければならないとしたら、さしもの麻也子も野村とホテルへ直行する気になったかどうか。ましてや、その結果、万が一にも濃厚接触者となってコトが明るみに出る恐れさえあったときに……。では、新型コロナ禍は女性たちから何を奪ったのだろうか?



 屈託なくのびのびと振る舞うことのできた麻也子は、妻子持ちの野村との情事が惰性に流れていくと、新たに出会った年下で独身の音楽評論家・工藤通彦に惹かれていく。かれの部屋でうぶな恋人同士のような関係がはじまったころ、厚かましい野村からも誘いがかかって、彼女はふたたびホテルで受け入れてしまう。こんな具合に――。



 「いやぁ……」

 怒ったつもりであったが、それはすぐに深いため息に変わる。収まるべきものが収まった時の、あの心地よさをいつのまにか麻也子は感じているのだ。麻也子は眉をひそめ、意識を集中させる。相手の腰が激しく動き始め、麻也子を遠いところへ連れていく前に確かめたいことがあった。

 この自分の体の中に入っている野村のものと、通彦のものとはどう違うのだろうか。野村が与えてくれる快楽と、通彦の快楽とはいったいどう違うのであろうか。(中略)

 麻也子にはわかっている。自分がいま願っているのは、諦めとも達観ともいえるだらしない温もりなのである。野村に抱かれ快感を得る、ああと叫ぶ、そしてその後で自分は哀しみにうちひしがれることであろう。結局、情事と恋との境いめなど何もないのだとせつなく泣くはずだ。が、その哀しみやせつなさは、自分を大きな賭けから遠ざけるはずである。冒険の旅への出発をやめさせるに違いない。

 そう、結局自分はとても怖がっているのだと麻也子が思ったとたん、いきなり野村が衝いてきた。麻也子の好きなリズムで、麻也子の好きな深さである。野村が誘い、麻也子はやがて、いつもどおり森の中へ入っていく。



 麻也子の心情にしたがえば、凡庸な日常性にみずからを縛りつけるために、こうした情事と、それにまつわる哀しみと切なさを必要としているらしい。現代にあって、一夫一婦制の桎梏に対して女性たちのほうが抜き差しならぬ苦悩を抱いているのだろうか、わたしには判断がつかない。しかし、これだけは言えるだろう。新型コロナ禍のもとですでに2年半が経過したいま、そうした女性たちの性欲は捌け口を見出せないまま、どこへ向かったのか、そして、もはや『不機嫌な果実』の時代には戻りようのないなかで、女性たちの行動はどんな変容を遂げていくのか? マスコミがただ目を背けていればいいという話ではない、とわたしは考えている。


一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍