シドニー・ルメット監督『十二人の怒れる男』

そのとき裁判員たちは
どのように判断したのか


393時限目◎映画



堀間ロクなな


 先日、たまたま目にしたNHKの『クローズアップ現代』(4月20日放送)に、わたしはのけぞってしまった。6年前の2016年8月、東京・文京区で4人の子どもを持つ母親が窒息死の状態で見つかり、講談社のやり手のマンガ編集者だった夫が逮捕された。その朴鐘顕(パク・チョンヒョン)被告は、裁判で妻の佳菜子さんは自殺だとして無罪を主張したものの、一審・二審で懲役11年の有罪判決が下されて、現在最高裁で審理が行われている。そうしたなかで、番組は、この事件には決定的証拠がないうえ、佳菜子さんの「産後うつ」の精神状態について見過ごされるなど検察側の立証に疑問があり、朴被告無罪の可能性が高いことを報じたのだ。



 公共放送のNHKが係争中の事件に真正面からクチバシをはさんだのも驚きだが、それ以上にわたしが衝撃を受けたのは、番組の終盤に至って、こうした事態を招いた背景には裁判員裁判のあり方が横たわっていると指摘されたことだ。すなわち、一審の東京地裁では、市民から選ばれた裁判員たちの時間的・精神的な負担を軽減するために「審理の迅速化」の配慮が働いたことにより、結果として不十分な証拠にもとづく判決が下されたというのだ。



 「ひとの運命を5分で決めてしまって、もし間違えていたらどうする?」



 シドニー・ルメット監督の『十二人の怒れる男』(1957年)で、ヘンリー・フォンダの演じる陪審員「8番」(審理中は名前でなく番号で呼ばれる)が口にするセリフだ。父親殺しの罪に問われた少年をめぐって法廷での審理ののち、12名の陪審員が別室に移って全員一致の評決をめざして議論がはじまったとたん、少年の犯行は明白だとすぐ有罪が決まりそうになったときに、この発言で「8番」だけが反対を唱える。それは一理あるように見えるけれど、われわれのふつうの考え方とは逆行する見解ではないか。かれは全員一致の結論よりも、何はともあれ議論に時間をかけることのほうが優先されるべきと主張しているのだから。



 議論のための議論という言い方にならえば、さしずめ時間のための時間と言ったらいいのだろうか。そして、実際、その拡張された時間のもとで、当の「8番」を含めてだれも少年の無罪を信じていなかったのに、法廷に提出された証拠をひとつひとつ吟味していくうち矛盾が浮かびあがり、また、この少年に厳罰を下そうとする各々の思いが公平なものでなく、内なる社会的偏見や個人的感情にもとづくことも露わになっていくにつれ、ひとりまたひとりと判断を変えていく……。



 わたしがいちばん不快を感じたのは陪審員「12番」(ロバート・ウェッバー)だ。広告代理店の宣伝マンと自己紹介して、いかにも如才なくぺらぺらと弁舌をふるうくせに、根底には確固とした信念も責任もなく、その場の空気に合わせて立ちまわることだけに汲々としている。そんな人物を憎悪するのは他でもない、まるで自分自身を眺めているような気がしたからだ。幸いにもわたしはこれまで裁判員を命じられた経験がないが、もしその機会に遭遇したときには、ひとを裁くことの重圧に耐えきれず、やはり嘆かわしくも右顧左眄して多数派に迎合しようとするに違いない。



 「疑問が疑問であるかぎり、被告を有罪にはできない」



 長引く時間の経過にともなって混乱をきたす同僚たちに対し、陪審員「8番」は断固として告げる。これは一般論としての推定無罪の確認と同時に、もとは少年の有罪に傾きかけていたみずからを厳しく諌めた言葉でもあったろう。こうしてかれは最終的に全員一致の無罪評決へと導くのだが、しかし、そんなハッピーエンドに感心している場合ではなく、もしかれひとりがいなかったら少年は有罪を宣告され、当時のアメリカの法律ではすぐさま電気椅子に送られていたと考えると空恐ろしくなる。そして、そうした裁判の秘める空恐ろしさがまさしく現実のものだからこそ、この映画が65年前に登場して以来、ずっと教訓のドラマとして通用してきたのだろう。



 そう、『クローズアップ現代』が指し示したのは、朴被告の妻殺害容疑をめぐる裁判においても「8番」が存在しなかったことだ。のみならず、それが現実なので、では「8番」の不在を前提としたときに裁判員裁判はどうあればいいのか、いまだどこにも正解の見つかっていない問いを突きつけたのである。



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍