石井裕也 監督『舟を編む』

いまを生きる辞書とは
どんなものだろう?


396時限目◎映画



堀間ロクなな


 先般再選を果たしたフランスのマクロン大統領は、その著書『革命』(2017年)のなかで、「フランス語を話す者は、フランスの歴史を託された者となり、フランス人となる」(山本知子訳)と述べている。要するに、フランス人とはフランス語を話す者である、と定義してみせたのだ。



 では、翻って日本人を定義するものはなんだろう? われわれは四方を大海に囲まれた列島に住み、似たような肌の色、髪の色、目の色を持ち、ことばに関しても『古事記』や『万葉集』の昔から固有の言語体系のもとで暮らしてきた……。それが歴史的な現実をどこまで厳密に反映しているかどうかはともあれ、ぼんやりした単一民族のイメージをおたがいに分かちあって、日本人とは何か、といった問いを突きつめることなくやり過ごしてきたのが実情だろう。ならば、いっそマクロン大統領の見解にならって、日本人とは日本語を話す者である、という定義について検討してみるのも価値がありはしないか?



 こうした観点に立つとき、辞書の存在意義はきわめて大きい。なぜなら、それは日本語のトリセツである以前に、日本人としてのアイデンティティの根拠を指し示すものに他ならないからだ(フランス社会では辞書の比重がさぞや大きいことだろう)。



 石井裕也監督の『舟を編む』(2013年)は、三浦しをんの原作にもとづき、三省堂や岩波書店などが協力して、そんな辞書づくりの内実を丹念にフォローしているところが興味深い。ドラマが描くところ、出版社にとって辞書編集部はお荷物でしかなく、オンボロのビルでわずか4名の社員が新企画の『大渡海』に取り組むことになったものの、ベテラン編集者(小林薫)の定年退職にあたって、後釜には営業マンとして早くも見切りをつけられた大学院出の新人(松田龍平)がやってくる始末。だが、辞書の監修をつとめる老学者(加藤剛)はかれらに向かってこうハッパをかけるのだった。



 「言葉の意味を知りたいとは、だれかの考えや気持ちを正確に知りたいということです。それは人とつながりたいという願望ではないでしょうか。だから、私たちはいまを生きる人たちに向けて辞書をつくらなければならない。『大渡海』はいまを生きる辞書をめざすのです」



 なるほど、ここに表明された宣言は、日本人とは日本語を話す者である、という定義を支持するものだろう。かくして編集部の面々が先行きの見通しも立たないまま、(1)用例採集(言葉集め)、(2)カード選別・見出し語選定、(3)語釈執筆、(4)レイアウト、(5)校正、の辞書づくりの作業工程に入ったのは1995年のこと。当時はまだ原稿も手書きが主流で、その涙ぐましい地道な仕事を積み重ね、ひとつひとつハードルをクリアしながら、2010年にとうとう『大渡海』が完成するまでのドラマが綴られていく。



 その15年という時間はたんに長大なばかりではなかった。実は、この間に日本の出版市場は売り上げのピークを記録したとたん坂道を転げ落ちるように縮小して、ドラマのなかでもあわや『大渡海』が刊行中止となるエピソードが挿入されている。それからさらに歳月を重ねた2020年代のいま、小学校でも当たり前のようにタブレットの教科書が使われる時勢のもとで、こうしたアナログなやり方で大がかりな紙の辞書が新たに誕生するとはとうてい考えられず、その意味でごく近い過去を舞台にしたものとはいえ、もはや二度と再現されることのない一種の時代劇と見なしていいのだろう。



 それだけに、老学者が放った「いまを生きる辞書」のセリフは光沢を帯びている。この命題は決して過去のものではないばかりか、むしろ、ますます意義を増しているように思えるからだ。社会で少子化が叫ばれるようになって久しく、現在1億2千万の人口が今世紀末には5千万前後まで減ると予測される一方で、これからますます世界各地をルーツとする人々がやってきて列島に住みつき、もはや単一民族のイメージなど吹き飛ばして、みなが力を合わせて日本の未来を切り開いていくはずだ。そのときにもし、日本人とは日本語を話す者である、という定義が成り立つとしたら、そこに求められるものこそ「いまを生きる辞書」なのだろう。



 果たして、どんなつくりでどんな内容の辞書なのか? なんら見識を持たないわたしでも、あれこれと想像をふくらませると胸が高鳴ってくる。そう、映画のなかで『大渡海』に携わった編集者たちが体験したのと同じように――。



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍