『ウルトラマンの歌』
ウルトラマン世代として
『シン・ウルトラマン』を論ず
398時限目◎音楽
堀間ロクなな
劇場公開中の庵野秀明企画/樋口真嗣監督『シン・ウルトラマン』(2022年)にさっそく馳せ参じたところ、ウルトラマン世代のひとりとして失望を禁じえなかったのは、われわれの胸に染み込んでいる『ウルトラマンの歌』(東京一作詞/宮内国郎作曲)が一切使用されなかったことだ。同じ制作スタッフによる『シン・ゴジラ』(2016年)では、エンディングで伊福部昭作曲になるオリジナル音源がえんえん鳴りわたってオマージュを捧げたのとは著しく対照的だった。
胸につけてる マークは流星
自慢のジェットで 敵をうつ
光の国から ぼくらのために
来たぞ われらのウルトラマン
確かにこの歌詞はいかにも童謡じみていて、今回の映画化が『シン・ゴジラ』と同じく堂々と大人の鑑賞に堪える作品をめざす立場から、そうしたコンセプトと相容れない要素として排除したことはいちおう理解できる。しかし、オリジナルのテレビドラマ『ウルトラマン』(1966年)において、あの主題歌はたんに子どもの視聴者におもねるものではなく、そこに構築された世界観に深くかかわっていたと思う。
いまさら解説するまでもないだろうが、このドラマは、宇宙のかなたのM78星雲から飛来したウルトラマンと、国際科学警察機構の日本支部・科特隊(科学特別捜査隊の略称)のメンバーが力を合わせて、地底から現れた怪獣や地球侵略にやってきた宇宙人と対決するのを基本設定としている。留意したいのは、その科特隊にはオレンジ色のユニフォームに身を包んだ男女5名の隊員のほかに、準隊員の資格で子どもたちも参加して、かれらの思いがけない発想や勇気ある行動がしばしば非常事態を打開するきっかけになることだ。
それに対して『シン・ウルトラマン』では、科特隊ならぬ禍特対(禍威獣特設対策室の略称)はレッキとしたエリート官僚組織で、省庁や大学から出向してきた6名のメンバーはスーツ姿で最前線に立ち自衛隊の制服組をリードする。そこには子どもの入り込む余地などなく、結果として、怪獣や宇宙人との戦いはおのずから陰惨で頽廃的な雰囲気を帯びていく。オリジナルの『ウルトラマン』は子どもたちの存在によって、こうした暗さを未来への希望に転化させていたことがいまにして浮き彫りになったのだ。
最も端的な例は、メフィラス星人のエピソードに他ならない。『シン・ウルトラマン』では、かれは平和主義者を装って日本政府とも接触しながら、その実、地球征服を目論み、ライヴァルであるウルトラマンとはたがいに人間の格好で対面して、居酒屋で盃を交わしつつ自分の優位を説くのだが、ついに両者は本来の宇宙人の姿になって対決することに。やがてウルトラマンがおのれの死と引き換えにしても地球人を守ろうとする覚悟を知ると、それに免じて地球をあとにした。ところが、『ウルトラマン』では、メフィラス星人はサトルという少年に向かって「地球をあげる」と言ってほしいと求め、そうしてくれたら別の星をプレゼントするとまで持ちかけるのだが、最後までサトルが拒みとおしたことで撤退する。まるで公共事業をめぐる業者同士の談合のような一幕と、子どもがたったひとりの力で世界を救う一幕の、双方のギャップはあまりにも大きい。
つまり、こうした事情だろう。『ウルトラマン』が登場した1960年代、日本は高度経済成長期にあって総人口はうなぎのぼりの曲線を描き、社会全体が野放図なエネルギーを漲らせて、テレビドラマのなかだけでなく、世間のさまざまな局面で大人と子どもは入り混じって交流しあっていた。ところが、それから半世紀あまりが経過して、もはや景気は長きにわたって低迷し、出生率の低下で少子高齢化に歯止めがかからない状況において、いつしか大人と子どものあいだには目に見えない壁が立ちはだかり、相互に顔をそむけたままやり過ごすようになったのではないか。
ポスト・コロナの未来を開こうとするいま、この閉塞感に風穴を開けるためには、多様なフェーズで大人と子どもが交流することによってハイブリッドなエネルギーを生みだす仕組みをつくっていくほうが、怪獣や宇宙人の撲滅よりも喫緊の課題だろう。『ウルトラマンの歌』を欠いた『シン・ウルトラマン』は、逆説的にそれを教えてくれているとわたしは思う。
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