駒ヶ嶺朋子 著『死の医学』
「側頭頭頂接合部」の
死の恐怖を和らげる仕組み
427時限目◎本
堀間ロクなな
ひょっとしたら、われわれは「死」を楽しんでいるのかもしれない。だって、人類の芸術史を見渡すかぎり、文学、音楽、美術、あるいは演劇・映画……と、あらゆる分野でひたすら「死」が描かれ続けてきたではないか。もちろん、生命ある存在にとって「死」が最も重大なテーマなのは当然だが、だからといって必ずしもシリアスな表現だけでなく、グロテスクであったり、ファンタスティックであったり、ユーモラスであったり。まるであの手この手で「死」を弄んでいるようにさえ感じられるほどだ。
さらに卑近な例を挙げれば、われわれを取り巻くマスコミが毎日おびただしい「死」を伝えてくるのに、だれも違和感を覚えない。たとえ食事中にテレビが血なまぐさいニュースを流したとしても、善男善女の手は箸を休めることなく平然と飲み食いしている。こうしてみると、われわれは実のところ「死」を忌避していないばかりか、その非日常的な刺激をせっせと日常生活のなかに取り込んで、あたかもスパイスのごとく味わっていると理解してもよさそうだ。
それはすなわち、われわれの脳が「死」に対して快感を覚えるからではないのか。そんなふうに考えたのは、駒ヶ嶺朋子の『死の医学』(インターナショナル新書、2022年)と出会ったのがきっかけだ。
詩人にして脳神経内科医という著者が、人間の生死のあわいに存在するあれこれの現象を最新の医学的知見にもとづいて解き明かしていく本書は、驚きにつぐ驚きの連続で息つく間もないくらいだが、わたしがひときわ驚嘆したのは脳の「側頭頭頂接合部」に関する記述だ。この部位は、聴覚を司る側頭葉と、体性感覚や前庭感覚を司る頭頂葉、視覚を司る後頭葉の境目に位置し、つまり複数の知覚を統合する場所と考えられているのだが、ここからが非常に興味深い。
人間が何かの拍子に、自分の魂が身体から脱け出してふわふわと宙を浮かんでいるように感じる体外離脱体験。また、瀕死の状態にあって、美しい花畑を眺めたり、川の向こう岸に亡くなった家族の姿を見たり、トンネルを抜けていった先で光に包まれたりする臨死体験。こうした不可思議な快感の現象は「側頭頭頂接合部」に関連しており、実験でこの部位に電気刺激を与えると、被験者に同様の体験を引き起こすことができるというのだ。さらには、脳外科医オラフ・ブランケのグループが行ったヴァーチャルリアリティ(VR)による体外離脱体験の実験をつぎのように紹介している。
「被験者の背中に触覚を刺激する装置を着け、それと同時に被験者の後頭部から背中を撮影し、その映像を被験者に装着させたメダネに流す。まるで自分の背部を少し離れた場所から見ているように感じさせながら、リアルタイムで背中の触覚装置を作動させると体外離脱体験が誘発できたのだという。脳を開いて電気刺激するという大がかりなセッティングではなく、ちょっと見せる、ちょっとくすぐるというトリックで感覚を混乱させるだけでも、体外離脱体験は誘発できることが示された。〔中略〕現在すでにどこかで、VRで体外離脱体験ができる商業施設が生まれているかもしれない。しかし、そのような経験を気安くしても大丈夫だろうか。/というのも、VRによって体外離脱体験を人工的に経験させてみると、人間が当然持つべき、死への恐怖が和らいだという報告があるからだ」
こうしたVRによる体外離脱体験が、たとえばカルト教団の洗脳に用いられかねない危険性を指摘して、著者はまずは医療目的などに用途を絞ることとアフターケアの必要性を強調する。そのあたりの論議は専門家に委ねるとして、わたしの目が吸いつけられたのは「死への恐怖が和らいだ」の一文だ。もし、そうした仕組みがあらかじめ「側頭頭頂接合部」に備わっているとするなら、芸術の各分野で連綿と「死」が表現されてきたことも、マスコミが日常的に「死」の報道を氾濫させていることも、体外離脱体験や臨死体験の一環といえるのかもしれない。いったん精神を身体から分離して、さまざまな「死」を経験させることで、やがて必ず訪れるみずからの「死」への恐怖を減衰させていくのだろう。
いや、それどころじゃない。いざ現実に「死」と直面したときには、人生最後のビッグイベントにふさわしい法外な快感を味わえる仕組みも「側頭頭頂接合部」は用意しているのではないか。そんな気さえしてくるのである。
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