イーストウッド監督・主演『ミリオンダラー・ベイビー』
ボクシングだけに
許されたファンタジー
426時限目◎映画
堀間ロクなな
わたしはボクシングを経験した――とは口幅ったい言い方だけれど、実際、大学2年のときに体育の教科を履修するにあたり、せっかくだからそうそうできないことをやってやろう、と考えてボクシングの授業を選択したことがある。初心者の男女学生20人ほどが体育館に集まって、練習用グラブをはめてシャドーボクシングを行う程度のことだったが、それでも元日本代表という教師の指導のもとで手足をバタバタ動かしているうちに、自然と全身の血が騒ぎだすのを実感した。
最もシンプルな暴力。だからこそ、人間という動物を駆り立ててやまない。それが古代のエジプトやギリシア・ローマ以来、この競技が絶大な人気を集めてきたゆえんだろうし、また、新興メディアの映画が誕生すると、スポーツを題材にした分野ではダントツのシェアを占めてきた理由だろう。クリント・イ-ストウッドが監督・主演をつとめた『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年)も、そうしたボクシング映画の系譜につらなる傑作のひとつだ。
スクリーンには見馴れたシーンが続く。ロサンゼルスのダウンタウンのボクシング・ジムに、頑固な初老のオーナーのフランキー(イーストウッド)と、人情に厚い黒人トレーナー(モーガン・フリーマン)がいて、ある日、みすぼらしいウェイトレスのマギー(ヒラリー・スワンク)がやってきて、はじめは相手にしなかったフランキーも熱意にほだされコーチを引き受けると、彼女は過酷なトレーニングに耐えて頭角を現し、デビューしてからは連戦連勝を重ねて、ついに100万ドルのファイトマネーを賭けて女子ウェルター級チャンピオンとの試合に挑む――といった流れは、この手の映画としてごくオーソドックスなものに違いない。
マギーはアメリカ中西部の、いわゆるラスト・ベルト地帯にたむろする「プア・ホワイト」の出身。親きょうだいが集まってトレイラー・ハウスに住み、ジャンクフードを好んで野放図に太り、仕事にあぶれてぶらぶら過ごしながら、社会への不平不満にはちきれそうなかれらは、今日ではトランプ前大統領の熱狂的な支持層として知られる人々だ。そんな境遇から脱出するため、31歳の彼女は一途なハングリー精神を発揮してボクシングに立ち向かったのだ。
かくしてアメリカン・ドリームが新たな花を咲かすと思われたところで、いきなり様相が一変する。優勢に戦いを進めてきたリング上で、相手のチャンピオンが背後から放った反則のパンチにより、マギーは頸椎を挫傷して、人工呼吸器をつけて病院のベッドで寝たきりの状態となってしまう。「プア・ホワイト」の家族が早くも遺産目当てに騒ぎ立てるなか、全身麻痺のうえ片足の切断も余儀なくされて、ふたたびリングに立つ夢が消え去った彼女は自死を願い、二度も舌を噛み切ろうとするにおよんで、フランキーはみずからの手でその希望を叶えることを決意する……。
この成り行きについては、尊厳死や安楽死への取り組みに日本よりもずっと先進的なアメリカでも毀誉褒貶の声が湧き上がり、宗教関係者や障害者団体などが激しい抗議活動を起こしたという。しかし、わたしはここでの生死をめぐる倫理的なアポリア(難問)は主題ではなく、ふたりの孤高のラヴシーンを成り立たせるために設定された条件と受け止めたい。
唯一の身内である実の娘に見放されたフランキーと、自分の生き方を嘲笑う家族と相容れないマギー。ともに濃い影を背負い、ボクシングに縋るしかない両者が行き着く先の、愛の形とはおよそ世間の男女関係を超えた地平にあるだろう。フランキーはマギーにプレゼントした試合用のガウンに、おのれのルーツたるアイルランドの古い言葉「モ・クシュラ」とあしらった。そして、いよいよ深夜の病室で、ベッドに横たわるマギーの人工呼吸器を外し、致死量のアドレナリンを投与しようとするときに、初めてその意味を告げてただ一度きりの接吻を交わす。
「愛する人よ、お前は私の血」
映画は、フランキーがそのまま行方知れずになったことを伝えて結ばれるのだが、かれは病室に忍び込むときアドレナリンの容器を2本手にしていたから、残りの1本をみずからに用いたと理解するのがふつうだろう。ただし、わたしの目には、それは退嬰的な情死とは異なる、もっと力強く前向きな、この世界で可能性を絶たれたボクサーとコーチが別の世界でリングに立つための厳かな儀式のように映るのだ。もちろん、ファンタジーに過ぎない。だとしても、ボクシングという競技だけに許されたファンタジーではないだろうか。
ちなみに、わたしが半年間のボクシングの授業で体得したのはただひとつ、左フックの打ち方だ。元日本代表の教師によれば、一撃で相手を倒すのに効果絶大らしい。なるほど、映画のなかのマギーも初めての試合で敗れかけたピンチに、フランキーの指図どおり左フックで勝利をつかんだ。わたしもイザというときにはすかさず打てるよう、心がけているのだが……。
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