イニャリトゥ監督『バベル』
21世紀のいま
バベルの塔とは?
432時限目◎映画
堀間ロクなな
「いざ邑(まち)と塔を建て、その塔の頂(いただき)を天にいたらしめん」
人類がシナルの地にバベルの塔の建立を思い立ったときの意思表明だ。まさしく神をも恐れぬ不遜な企てに激怒した神は、これを粉砕するために、かれらを世界各地に散らしてばらばらの言語をあてがい、決してひとつにまとまらないように取り計らった。バベルとは混乱を意味するという。メキシコの映画監督、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥによる『バベル』(2006年)は、『旧約聖書』創世記のこのよく知られたエピソードを踏まえたものだ。
映画は並行して進む複数の物語のピースを組み合わせていくうち、ジグソーパズルのように遠大な世界観が浮かびあがってくるという仕掛けになっているが、ここではざっくりと時系列に沿って四つのパートにまとめてみよう。
(1)日本の東京・新宿界隈。中小企業の社長と思われる男(役所広司)は、妻が自殺して、ひとり娘(菊地凛子)と暮らしている。聴覚障碍者の彼女はろう学校の高校に通う一方で、性欲に突き動かされて街をさまよいつつヴァージンを脱せずにいた。男は気づまりな日常を忘れるためだろう、北アフリカのモロッコへ出かけてハンティングを楽しんだあと、親しくなった現地ガイドに新式のライフル銃をプレゼントする。
(2)そのライフル銃は、モロッコの山岳地帯に住む遊牧民の一族が買い求めた。父親はヤギの群れの番をする息子たちに渡し、コヨーテを追い払うため使うよう命じると、かれらはさっそく試し撃ちをはじめ、かなたからやってきた観光バスに向けて弟の放った一発が偶然に命中してしまう。このアクシデントのせいで、やがて父親と息子たちは警察隊の追跡を受け、銃撃された兄が命を落とすことになる。
(3)アメリカ人の夫婦(ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット)は、離婚の危機を打開しようとモロッコの観光ツアーに参加したが、バスの車内でも口を利かずにいたところ、突如、銃弾が窓ガラスを破って妻の首筋を直撃する。近くの村で応急措置を施したものの、観光バスの一行は立ち去り、テロを疑ってアメリカ大使館の対応も遅れ、ようやく救援のヘリコプターが到着したときには妻は予断を許さない状況にあった。
(4)アメリカ南部の邸宅では、メキシコ人のベビーシッターが旅行中の主人から妻の治療で帰国が遅れると連絡を受けた。彼女は自分の息子の結婚式に参列するため、世話をするふたりの幼児を連れてメキシコに向かい、その日のうちに甥の運転する車で帰宅しようとしたところ、検問所でトラブルとなって逃走する。泣きじゃくる子どもたちと砂漠地帯で夜を明かした彼女は、国境警備隊につまかって不法滞在者として強制送還されることに。
このごった煮のように支離滅裂なストーリーは一体、なんだろう? 国家も風土も人種もばらばらな土地を舞台に、日本語、アラビア語、英語、スペイン語が入り乱れて、登場人物たちが運命に弄ばれるありさまは、神の手によって分断された人類が今日なお混乱をきわめている状況を示したものか。それはそうかもしれない。しかし、わたしの目にはそうした光景の向こうにさらに聳え立つものが見て取れる気がする。
「本物のバケモノ、見せてやる」
菊地凛子が扮する女子高生は、自分のほうから男に接近し、ろう者と知って腰の引けた相手に苛立ってこうつぶやく。そして、トイレで下着を脱ぎ捨てると、男どもの視線に向かってスカートをまくりあげ股間を開いてみせるのだ。このセリフは、抜き差しならない内面の声が発していることで、冒頭のバベルの塔を建造しようとした古代人の言葉と響きあっているだろう。たとえ、こちらは深い絶望に由来するとしても。そして、その絶望はモロッコの山岳で自己の過失から兄を死に追いやった弟のものでもあり、仲違いしていた妻が瀕死の重傷を負って目の前にいながら何も手を打てない夫のものでもあり、雇い主の子どもたちを瀕死の危機にさらして生活基盤の一切が無に帰した外国人労働者のものでもあった。
涙のバベルの塔――。神のあずかり知らぬところで人類はそんなオベリスクを、21世紀のいまも天を衝くばかりに築き続けている、と映画は訴えてくるようだ。
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