サン=テグジュペリ著『星の王子さま』

永遠の名作に
施された手品の数々


484時限目◎本



堀間ロクなな


 日本の小惑星探査機が送って寄越した「イトカワ」や「リュウグウ」の映像を目のあたりにして、サン=テグジュペリの『星の王子さま』(1943年)が頭をよぎったのはわたしだけではないだろう。この本では作者自身が挿し絵を手掛けているのだが、王子さまの故郷の小惑星B-612の光景がそれらにそっくりだったからだ。ほんの人間ひとりの居場所があるくらいの、小さな岩だらけの星。もっとも、そこには当然、王子さまが面倒を見ながら仲違いしてしまった一輪のバラの花は影も形もなかったけれど。



 フランスの飛行家にして小説家のアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは、手品の名手でもあったという。そんなかれにとって、太陽系のかなたに浮かぶ不毛の岩塊にバラの花を咲かせるのは造作もなかったはずで、ことほどさように、この永遠の名作には作者の手品の数々が施されているようなのだ。



 わたしがそのことに気づいたのは、アメリカの女性ジャーナリスト、ステイシー・シフになる評伝『サン=テグジュペリの生涯』(1994年、日本語版は1997年)のおかげだ。と言っても、分厚い本文に取りかかるより先に、巻頭の口絵にすっかり参ってしまったのだ。そこには、サン=テグジュペリが飛行機に搭乗する直前の装備中の写真があって、ひどく大柄の男が案山子(かかし)のように両手を広げて仲間に飛行服を着せてもらいながら、不機嫌に顔を歪めているありさまは、まるで悪役プロレスラー! この作品はかれの実体験をもとにしているが、飛行機事故でサハラ砂漠に不時着して、あどけない王子さまと交流する語り手がいかにも優しく柔和な感受性の持ち主として描かれているのも、どうやら手品の産物らしい。



 それだけじゃない。『星の王子さま』のページをめくりながら、語り手の「ぼくは、この本を、寝そべったりなんかして、読んでもらいたくない」という言葉と出くわして、慌てて姿勢を正した覚えがあるひともきっと多いと思う。ところが、である。口絵には、第二次世界大戦のさなか、サン=テグジュペリが亡命先のアメリカで『星の王子さま』を執筆している写真ものっているのだが、そこは(れっきとした妻が存在するにもかかわらず)新しい恋人のニューヨークのマンションの部屋で、なんとベッドの上に寝そべってペンを手にしているではないか!



 どうやら、われわれはこれまで生真面目に過ぎたきらいがありそうだ。日本においては原題『ル・プチ・プランス(小さな王子)』に対し、フランス文学者の内藤濯(あろう)が『星の王子さま』の訳語を与えて、「かんじんなことは、目に見えない」のテーゼを中心とする人生指南の書として受け止められてきた。もちろん、それも大切な一面なのは確かだとしても、もう一面で作者にはもっとリラックスして手品を読者に楽しんでもらうような茶目っ気もあったのでは? この作品で最も感動的なのはラストシーンだろう。一輪のバラの花が待つ故郷の星へ帰ることを決意した王子さまが、みずから足首を毒ヘビに咬ませて静かに倒れるシーンを、作者はいったん挿し絵にしたあとで、目の前から王子さまがいなくなったあとの砂漠の風景も描いてみせる。そして――。



 「これが、ぼくにとっては、この世の中で一ばん美しくって、一ばんかなしい景色です。前のページにあるのと、おなじ景色ですけれど、みなさんによくお見せしようと思って、もう一度かきました。王子さまが、この地球の上にすがたを見せて、それからまた、すがたを消したのは、ここなのです」



 かつてわたしもここで堪えきれずに号泣したものだけれど、それはともかく、前掲の評伝でステイシー・シフはこんなエピソードを紹介している。ある晩、モントリオールのレストラン「カフェ・マルタン」に友人たちと訪れたサン=テグジュペリは、4人分の食器が並んだテーブルからいきなりテーブルクロスを引き抜き、銀器やグラスなど何ひとつ落とさない技を披露してまわりを驚かせたそうだ。すなわち、星空が見下ろす広大なサハラ砂漠の風景からひとり王子さまだけを消し去ったのも、そうした手品と同様の手並みのなすところだったのに違いない。



 手品はそれだけにとどまらなかった。『星の王子さま』を世に送りだした翌年の夏、サン=テグジュペリはコルシカ島のボルゴ基地から軍用機で飛び立ったきり、自分自身の姿もまた地球上から消してしまったのである。


一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍