中 勘助 著『犬』
ここにあるエロティシズムは
また生へのしたたかな欲求でもある
1時限目◎本
堀間ロクなな
芥川龍之介を読み直してみよう、と思ったのが失敗だった。かつて10代のころに、その短篇小説に引かれて文学を味わった気分になったり、黒澤明監督が映画化した『羅生門』を観て圧倒されたりの覚えがあったので、この機会にいっそ“大人買い”をしてやれ、とヤフオクで全集を入手した。さっそく第1巻を開く。そして、ページを繰るごとに戸惑いがふくらんでいった。退屈。あれだけ胸躍らせた感興が少しも蘇ってこないのだ。わたしの感受性がすっかり錆びついてしまったのか。あいだを飛ばして、うしろの最後の作品を集めた巻を開いてみる。天才の名をほしいままにした作家の到達点だろう。しかし、事情は変わらない。そうして理解した、つまりは幼稚なのだ、と。
「ぼんやりした不安」による35歳での自殺――。だれしも若い時分には、自殺というものに多少とも憧憬を抱いている。そうした幼い憧憬が、芥川の文章に後光をもたらしていたのではないか。いまやこの年齢に辿りつき、自殺に憧憬なんぞ抱いている場合ではなく、むしろ大小の苦難に耐えながらしぶとく生きていくことの重みを知るようになった者の目には、その文章からメッキが剥げるように光沢が失われ、ただ痛ましい幼稚さだけがきわだって見えるという事情なのではないだろうか。
そう気づいたのは、中勘助の『犬』(1922年)と出会ったからだ。芥川と同じく夏目漱石門下の作者は、漱石の推薦により『銀の匙』が知られることになったせいで、どこまでも無垢で繊細なイメージがまとわりついている。しかも、それが“名門”灘中学の国語の教材に使われたことが話題を呼んだりして、いっそうわたしとは遠い存在と受け止めていたのだが、大間違い。そんなきれいごとのイメージを粉砕するのが、この一篇だ。
11世紀のインド、老年のバラモン教の苦行僧がたまたま見初めた若い娘への情欲を煮えたぎらせ、ついには思いを遂げるために呪術でおのれも娘も犬に変えてしまうというストーリー。そこには理念やら哲学やらといった夾雑物はなく、作者はひたすら性の不条理の実相に目を凝らしているかのようで、そのあからさまな描写はここに引用するのも憚られるほどだ。憚られはするのだが、“僧犬”(苦行僧が変身した犬)が彼女に放った、ひときわスケベな言葉を書き留めておこう。
「それにあれ(人間の死体から食いちぎってきた睾丸)はえらい根の薬じゃ。そなたはほどのうもとの身体になるじゃあろ。犬の寿命は短いものじゃ。そのうえわしは年よっとるで、わしらは根を強うしてせいぜい楽しまにゃならぬ」
さすがに、この内容では灘中学も恐れをなして教材には使うまい。そう、これはまさしく大人にこそふさわしい教材なのだ。わたしには芥川龍之介全集よりも、この岩波文庫で80ページほどの作品のほうにずっしりと手応えが感じられる。ここにあるエロティシズムは、およそ自殺などとは相容れない、生へのしたたかな欲求でもあるだろう。たとえそれがどす黒い闇を孕んでいたとしても、みずからの老いを生きていくうえの教訓が見つかるはずだ。中勘助は、明治・大正から、昭和の戦前・戦中・戦後を生き抜いて80歳の天寿をまっとうしている。
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