知里幸恵 編訳『アイヌ神謡集』
至純の心が書き留めためくるめく言霊たちの世界
7時限目◎本
堀間ロクなな
さいた さいた さくらが さいた――。
小学校にあがり、国語の教科書のページを開いて、この呪文と向き合った日のおののきを覚えている。あのころはいまと違って、ちゃんと入学式の時期に校庭のサクラがほころび(わたしが住んでいた土地では)、その下を母の手に引かれ、真新しいランドセルを背負って誇らしげに歩いていったものだ。真っ青な空はどこまでも澄みきって……。まあ、記憶のかなたで美化された光景ではあるけれど、それでも、教科書に印刷されたその呪文は自分が世界とひとつとなる道しるべ、幼いわたしにとって確かに言霊だったろう。
やがて目先の喜怒哀楽や利害得失に気を取られ、さらに長じてからは日々の生活の重圧にもがいているうちに、言霊とふれあう機会が失われていく一方だったのは、いかんともしがたい事情かもしれない。そうしたなか、久しぶりにわたしの前に立ち現れた言霊をここに紹介しよう。ローマ字の表記はできれば声に出して読んでほしい。
“Shirokanipe ranran pishkan, konkanipe
ranran pishkan.”arian rekpo chiki kane
petesoro sapash aine, ainukotan enkashike
chikush kor shichorpokun inkarash ko
teeta wenkur tane nishpa ne, teeta nishpa
tane wenkur ne kotom shiran.
「銀の滴(しずく)降る降るまわりに、金の滴
降る降るまわりに。」という歌を私は歌いながら
流に沿って下り、人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持になっていて、昔のお金持が
今の貧乏人になっている様です。
「Kamuchikap kamui yaieyukar(梟の神の自ら歌った謡)」の出だしだ。フクロウの神さまは北海道の天地にあって、そのいまは貧乏人になっている家へ訪れ、宝物でいっぱいにし、近在の人びとを集めて盛大な酒宴を催し、こうして人間の国の幸せを守っているさまを歌いあげていく……。
わずか19歳で天に召されたアイヌの少女、知里幸恵が祖先から口伝えにされてきた物語をローマ字で記録し、日本語の口語訳を添えた『アイヌ神謡集』(1922年)巻頭の一篇。これ以上の説明は余計だろう。わたしには、ここに言霊の息づいているのがありありと感じ取れるのだ。
新しい義務教育では、小学校から本格的な英語学習が実施されるという。子どもたちがグローバル時代を生きていくための対策にせよ、しかし、もし言葉をコミュニケーションの道具とだけ捉えているとしたら、文科省の発想は貧困と言わざるをえない。自然と交流し、宇宙と交感しながら、自分自身のありかを確かめていく、言霊としての働きを感受できることのほうが人間にとってずっと大切なはずだから。そして、もうひとつ小さな疑問を呈しておくと、この奇跡のような書を岩波文庫ではかねて「外国文学」に分類していることが解せない。
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