デカルト著『方法序説』

書物からオーラを

奪い去ったのはだれなのか

 16時限目◎本

ロクなな
 
  今秋(2018年)、上野の森美術館で開催された〔世界を変えた書物〕展に出かけた。金沢工業大学が所蔵するおもに理系の稀覯書を集めたもので、わたしが足を運んだのは平日の雨模様の午後だったが、予想に反して多くの老若男女で賑わっていた。

 
  会場には、活版印刷が発明されて以降の歴史的名著がずらりと並べられている。古代ギリシアの学問を再発見させたユークリッド『原論』にはじまり、地動説から天動説への文字どおりコペルニクス的転換を引き起こした『天球の回転について』、ケプラー『新天文学』などを経て、ダーウィン『種の起源』やアインシュタイン『一般相対性理論の基礎』までの、初版本がひしめきあうさまは壮観だった。

 
  それらを前にはただもう平伏するよりほかなかったけれど、やがて自分が、のみならずまわりの参観者たちも、次第に足取りが速まっているのに気づいた。一体、どうしたことか? 前半の15~17世紀あたりの展示に対してはみな熱心なのに、後半になると関心が薄れていくようだ。当初の重厚な造本ばかりが理由ではあるまい。ひとしきり周囲を観察して、わたしは理解した。どうやらその分水嶺はデカルトの『方法序説』らしい、と――。

 
  この書物の正式な題名は、『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学』(1637年)で、「方法序説」は序文の部分であり、また、最大の功績は本論の「幾何学」において確立された解析幾何学(座標をもとに図形と方程式を結びつける、中学で習ったアレ)であった。つまり、この一冊はたんに自己の見解を論述しているのではなく、トータルで世界そのもの、宇宙そのものをまるごと解明することを目的に執筆されたのだ。
 

  壮大な野心だと言うべきか。あるいは、誇大妄想だと? しかし、今回の展覧会で目の当たりにしたのは、ユークリッド、コペルニクス、ケプラー……などなど、いずれもが世界や宇宙のまるごとの解明を目的として、それが書物に燦然とオーラをもたらしていることだ。ところが、『方法序説』をピークに、そのデカルトの影響のもとで書かれたニュートンの『自然哲学の数学的原理』などをわずかな例外として、またたく間にオーラが褪せていくように見える。もちろん、ダーウィンやアインシュタインの業績も画期的ではあれ、その著作の顔つきは現在の本屋に並ぶふつうの専門書と大差ない。一体、どうしたことか?

 
  『方法序説』において、神の存在証明に先立ってデカルトが書きつけた命題はあまりにも有名だ。
 
  Cogito, ergo sum.(われ思う、ゆえにわれあり)
 
  これについてビアスの『悪魔の辞典』(1911年)は、こう書き直すといっそう確実性に近づくと茶化してみせた。
 
  Cogito cogito, ergo cogito sum.(われ思うとわれ思うがゆえに、われありとわれ思う)
 

  なるほど、ついに神より前に人間が立ったときに導入されたコギトは、以後、人間がみずからの理性によって思考を進めていくにつれて、cogito cogito cogito ……と際限なく増殖していくだろう。そうした積み重ねが、より厳密な科学的真理を獲得させるのと引き換えに、神のもとで世界を、宇宙をまるごと解明しようとしてきた意志と力は萎えて、そのぶん書物からオーラが失われていく。かくして、時代を超えてわれわれを平伏させるような書物はもはや現れないことを、今回の展覧会は明らかにしたのではなかったか。

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍