クルーゾー監督『恐怖の報酬』
仕事にはすべて
恐怖がひそんでいる
561時限目◎映画
堀間ロクなな
そのことについて関係者に迷惑をかけてもいけないので、ごく大まかなアウトラインのみを記述することにしたい。東日本大震災の年のできごとだ。当時、わたしは会社で事業開発のセクションの部長をつとめ、新規プロジェクトの立ち上げに取り組んでいたまっただなかで大震災に見舞われて頓挫のやむなきに至り、まだ試行的段階だったとはいえ数千万円の赤字が見込まれる事態となった。すると、それまでプロジェクトの旗振り役だった役員が態度を一変させたのである。
経理担当の部長からは「アンタ、気をつけたほうがいい。あの役員はいざとなったら認知症のフリをしてでも現場に責任を押しつけてくるぞ」と耳打ちされたものの、まあ、その程度の芸当ができなければ役員になどなれないだろう、とわたしは意に介さなかった。ところが、いまだに忘れもしないのは、社長以下の全役員に対してプロジェクトの経過報告を行う運びとなり、くだんの役員にも厳しく叱責されて釈明しようとしたとたん、いきなり右の上の奥歯が抜け落ちてフガフガと口がきけなくなったことだ。
あれはなんだったのだろう? と、わたしはずっと自分に問いかけてきた。そして、その答えのヒントがアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の映画『恐怖の報酬』(1953年)に見つかったような気がするのだ。
こんなストーリーだ。南米ベネズエラの山岳地帯でフランスの石油会社が掘削事業を展開し、麓の町には本国から流れてきた連中が日雇いの仕事を求めてたむろしていた。そんなある日、油田で大規模な火災が発生すると、会社は強大な爆風による消火を目論んで、倉庫に保管されているニトログリセリンを500キロ先の現場まで運ぶための運転手を募集する。高額の報酬を目当てにこれに応じた青年マリオ(イヴ・モンタン)は、初老のジョー(シャルル・ヴァネル)と組んでトラックに乗り込み、他の二人組のもう一台のトラックとともに、わずかな熱や衝撃で大爆発を起こしかねないニトログリセリンを荷台に満載して出発する。その眼前には凄まじい炎天の下、大小の岩石だらけの未舗装の道路がどこまでも延びていて……。
われわれがこの映画でしばしば背筋の痺れるような戦慄に襲われるのは、死と隣り合わせの危険な行程の描写もさりながら、それ以上に当事者のトラック運転手たちがこうした状況にふさわしからぬ振る舞いを見せるところだ。若いマリオは男気を誇示しようとするあまり、大胆不敵なハンドル捌きを披露したり、ニトログリセリンの傍らで煙草をふかしたり。他の連中も運転席で馬鹿話に興じたり、ことさら大笑いしたり。そんな危険に対する無頓着さがこちらの恐怖を呼び起こすのだ。
そこで、気づく。13年前にわたしが携わった新規プロジェクトの仕事だって、ひとつのきっかけでいっぺんに吹き飛ぶ危険を孕んでいたにもかかわらず、あえてそこから目を背けて、おのれの力量を試すことだけにのぼせていたのではなかったか。あのとき、もし映画の観客のような第三者の目があったら、わたしにもマリオたちと同様の危険に対する無頓着さが見て取れたのに違いない。その実、心身の奥深くはとうに恐怖に蝕まれて、わたしの場合は奥歯の脱落という形で現れ出たのではなかったろうか。
やがて、マリオたちのトラックは隘路のヘアピンカーブに差しかかり、方向転換するには腐りかけた木組みの足場にニトログリセリンの重量を預けなければならなくなった段階で、自分たちの置かれた境遇を思い知らされる。相棒のジョーが怯え切って「狂気の沙汰だ」と口にすると、マリオはすかさずこう応じた。
「そう、この仕事に乗ったときから狂気の沙汰だったのさ」
わたし自身もあのとき狂気の沙汰にあったのだ。いや、わたしの場合にかぎった話ではあるまい。およそ仕事というものにはすべてなんらかの恐怖がひそんでいて、それをやり過ごしながらこなしていくためには、どうしたってある程度の狂気を必要とするのだろう。むしろ肝要なのは、たとえ本人にとってどれほど過酷であったにせよ、無頓着さに逃げ込むことをやめ、多少とも狂気の自覚を持とうとする態度ではないか、とこの映画から学んだ次第である。
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