上西雄大 監督・主演『ひとくず』

子どもの虐待への
新たな視角がそこに


567時限目◎映画



堀間ロクなな


 鉛を呑んだよう、と形容すればいいのだろうか。子どもの虐待を伝えるニュースに接するたび、胃袋のあたりが痺れたような感覚に襲われる。圧倒的に非力な存在に向かって暴力をふるうとは最も卑劣な犯罪ではないか。しかも、そこにある種の快感を味わっているらしいと想像するにつけ吐き気さえ催すのだ。したがって、これまで児童虐待をテーマにした映画も遠ざけてきたところ、レンタルショップで『ひとくず』(2020年)を借り出したのは、監督・主演の上西雄大には実際に父親から虐待された経験があって制作したと知ったからだ。この問題に新たな視角を切り開いたのかもしれない、と――。



 空き巣をなりわいとする金田(上西)は、たまたま盗みに入ったマンションの一室で8歳の少女・鞠(小南希良梨)と出くわす。電気もガスも通わず、食べものも見当たらない部屋で,彼女は置き去りにされたばかりか、その全身にはおびただしい痣や火傷の痕があった。金田は鞠を連れだすと、まず銭湯に入らせ、服を買って着替えさせ、ラーメン店で食事をさせ、夜の遊園地の観覧車で遊んでから、マンションへ送り届けた。



 そこには、小学校の担任教師と児童相談所の職員が待ち受けていて、児童誘拐を疑われた金田が逃げたところに、厚化粧をした母親・凛(古川藍)と情夫のヤクザが現れる。そして教師らを追い払うなり、部屋のドアを閉ざし、ヤクザの男はすかさず鞠に罵声を浴びせて熱いアイロンを振りかざした。すると、彼女の悲鳴を聞きつけた金田が舞い戻ってきて、揉みあったあげく台所の包丁で男を刺し殺し、死体を車で山林へ運んで埋める。


 

 このあと、金田と凛、鞠の母子がぶつかりあいながら、おたがいに少しずつ心を開きはじめる成り行きと並行して、金田には中学生のころ虐待を原因とする殺人事件で服役した過去のあることが明かされて、このように虐待がつぎつぎと連鎖していく不条理を摘発してみせたのも、たんに理屈ではなく、上西監督自身がかつて非道な父親に対して包丁を手にしたという実感にもとづくものだったろう。ついに3人が本当の家族になることを心に決めたとき、ヤクザ殺しが露見して金田はふたたび刑務所に逆戻りする。そして、ようやく刑期を終えて出所したかれの前にはすっかり成長した鞠の姿があった……。



 こうして、映画は虐待によって深く傷ついた者同士による「家族の再生」を描いて観る者を大きな感動へといざない、日本国内にとどまらず、ミラノ、ニース、マドリード……の国際映画祭でも表彰されたという。しかし、わたしはそんなハッピーエンドの背後に、もうひとつの主題が秘められていると思えてならない。たとえば、マンションでヤクザの男を始末した数日後、3人は焼肉店へ出かけ、金田の傍若無人な振る舞いが女性店員や他の家族客の顰蹙を買うなかで、こんなやりとりが展開する。



金田「鞠、ほら食え、特上の塩タンだ」

鞠「ママは?」

凛「レモン搾るんだよ」

(鞠、食べる)

金田「お前も食えよ」

(凛、食べる)

鞠「泥棒のおじさんは?」

凛「あんた、なに泣いてんの?」

(金田、自分が涙をこぼしていたことに気づく)



 まさに3人が新たな未来に向けて一歩を踏み出すシーンだ。ただし繰り返すが、これはヤクザの男を包丁で刺し殺して血まみれの死体を山林に遺棄したあとのことだ。小心者のわたしならとうてい焼肉など箸をつけられまい。そう、3人にとって焼肉は殺人の行為をともに呑み込むための儀式であり、未来の「家族の再生」に必須のプロセスであり、その根底に働いているのは、幼い子どもを虐待するような者は殺されていい、いや、むしろ殺されるべきだ、という論理のはずだ。



 もとより、法治国家の日本で決して容認されるべきものではないとわかっている。しかし、『ひとくず』からこの主題を突きつけられたことで、わたしは胃袋のあたりの鉛のようなつかえが溶解していくのを感じたのも事実なのである。



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍