ヘルマン・ヘッセ著『車輪の下』
新しい幸福感は
新鮮なブドウ酒のように
577時限目◎本
堀間ロクなな
わたしは東京・小平市の公立小学校から、ふたつ隣の国立市にある中学・高校一貫の私立男子校を受験した。小学6年の担任教師が熱心に勧めてくれたのがきっかけで、母親とともに初めてその学校を見学に訪れた際、いかにも名門エリート校らしい重厚な雰囲気が漲っているのに圧倒されたものだ。当時は中学受験がブームになりはじめたころで、このときの競争率も10倍以上といわれたものの、幸運の女神に微笑まれてわたしは合格することができた。地元の小学校からは初めてだったはずだ。
こうして真新しい詰襟の制服を着て電車通学するようになり、最初の夏休みを迎えて、読書感想文の課題に指定されたのがヘルマン・ヘッセの『車輪の下』(1906年)だった。わたしは何やら一人前になった気分で、新潮文庫の高橋健二訳を買い求めた。
ドイツの田舎町シュヴァルツヴァルトに生まれ育った少年ハンス・ギーベンラートはよく勉強ができたので、家族や学校など周囲の人々の期待を背に受けて、難関の神学校へ進学する(その後、大学を出て牧師や教師になる)ために州の試験を受けた。自分としてはラテン語のテストはうまくこなせたが、ギリシア語とドイツ語の作文に失敗したと思い込んでいたところ、なんと全体で二番の成績で合格したことが知らされて――。
目がくらむような気持ちで、少年は往来へ出た。立っているボダイ樹、日の照っている広場が目にうつった。なにもかもいつものとおりだが、すべてがいままでより美しく意味深げに喜ばしげに見えた。彼は及第したのだった。しかも二番だったのだ。最初の激しい喜びが過ぎ去ると、彼の心はあつい感謝の念でいっぱいになった。
このめくるめく思いはわたしも覚えがある。まわりの風景が一変して光輝き、まるで世界が自分のために存在するかのように感じられたものだ。しかし、こうした感激も長くは続かない。
シト―教団のマウルブロン大修道院で他の優秀な男子生徒たちと寮生活を送りながら勉学に取り組むようになったハンスは、級友たちのなかでもとりわけヘルマン・ハイルナーと親しくなる。すでに詩人の気質があって自由奔放なヘルマンは、ときにハンスに接吻したりして自分の世界に引き込んでいったあげく、さっさと修道院を脱走して、ハンスもまた退学を余儀なくされてしまう。ほんの半年ほどで故郷へ舞い戻ってきたかれは、周囲の失望のまなざしを浴びながら機械工として再出発を期したものの、同僚たちと慣れない酒を飲んだくれたあとに川にはまって頓死する――。
そのあまりに悲惨な成り行きに中学1年のわたしは開いた口がふさがらなかった。時代や風土が異なるとはいえ、ハンスと似たような境遇にいる自分がなぜこの小説を読まなきゃいけないのか? それを理解するのにしばらくの時間が必要だったのだ、国語の教師からすれば、われわれ生徒の幼い虚栄心を早々に相対化し、現実の教育システムという「車輪の下」の厳しさを感得させるのが目的だったことに。実際、以降の中学・高校の6年間、さらに大学の4年間を通じて、つねに頭の隅にハンスから受け取った教訓がちらついていたような気がする。
ところが、である。ヘッセが自己の実体験をもとにして書いたというこの作品を今度あらためて読み返してみたら、まったく別の個所に強い衝撃を受けた。ハンスとヘルマンの友情のあり方をこんなふうに説明していたのだ。
ふたりの早熟な少年は友情の中に、初恋の微妙な神秘の一端を、わくわくする恥じらいをもって無自覚ながら、すでに味わっていたのだった。そのうえ、ふたりの結合は成熟する男の苦味のある魅力を持っていた。また同様に苦味のある薬味として、仲間全体に対する反抗心を持っていた。〔中略〕ハンスはその友情に深く幸福な気持ちで執着すればするほど、彼にとって学校はうとましくなってきた。新しい幸福感は、新鮮なブドウ酒のように彼の血と思想の中をわきたちながらかけまわった。
新しい幸福感は、新鮮はブドウ酒のように――。同性愛とまでは言うまい。だが、思春期の男子同士の交わりの危うくも甘酸っぱい一面は確かにここに記されているとおりだった、とわたしも断言できる。その結果、のちに女性と正面から向きあうことがどれほど困難をともなったか。いや、実のところ、いまこの年齢に至ってもきちんと向きあえていないのかもしれない。そうした事情はまた、生涯に結婚・離婚を繰り返したヘッセ本人のものでもなかったろうか。どうやら、『車輪の下』は男子校に学んだ者にとっての秘められた予言の書のようなのである。
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