サン=サーンス作曲『動物の謝肉祭』

作曲家はなぜ
傑作を封印したのか


578時限目◎音楽



堀間ロクなな


 フランスの作曲家、カミーユ・サン=サーンスのおそらく最も有名な作品、『動物の謝肉祭』(1886年)はずいぶんと謎めいている。プロコフィエフの『ピーターと狼』(1936年)やブリテンの『青少年のための管弦楽入門』(1945年)とともに、子ども向けのわかりやすいオーケストラのレパートリーとして知られているけれど、わたしにはそう簡単に受け取れないのだ。



 まず、謎のひとつ。そもそもタイトルに冠した謝肉祭(カーニバル)と言ったら、人間どもがひときわ羽目を外して乱痴気騒ぎを繰り広げ、ふだんよりも盛大に飲み食いするイべントのわけで、その食卓に供されかねない動物たちがいっしょになってはしゃぎまわるなんてブラック・ジョークではないか? まあ、ことさら目くじらを立てるまでもないにせよ、往年のお祭り男、バーンスタインがニューヨーク・フィルを指揮して、みずからナレーター役も引き受けたゴージャスな演奏を聴いていると、お尻のあたりがむずむずしてくるのも事実なのだ。



 その『動物の謝肉祭』は、いきなりピアノが炸裂する「序奏とライオン王の行進」にはじまる。ついで、「メンドリとオンドリ」「ラバ」「カメ」「ゾウ」……と続き、途中でなぜか下手くそな「ピアニスト」も動物扱いされ、だれもが耳にしたことがあるはずのチェロ独奏の「白鳥」を経て、賑やかな「フィナーレ」へ至るという、全部で14の小品から成り立っている。



 そこで、謎のもうひとつ。サン=サーンスは20代でパリの音楽学校の教師をつとめていたとき、生徒たちに道化芝居を演じさせるため、『動物の謝肉祭』のアイディアを思いついたというが、実際にできあがったのは教師の仕事をやめて20年以上も経ったあとのことだった。しかも、せっかく完成させた作品をごく内輪で披露しただけで、あの「白鳥」のみ独立させて発表したものの、他はすべて自分が世を去るまで一切の演奏・出版を禁じたのだった。あちらこちらにオッフェンバック、ベルリオーズ、メンデルスゾーン、ロッシーニらの引用をちりばめたパロディの楽曲であることが、その理由だとされているが、果たしてどうだろう? クラシック音楽史にあっては古来、作曲家同士のあいだで引用はごく当たり前に行われてきたことではないか。



 かくして、最大の謎と出会う。サン=サーンスは1878年、43歳の年に人生の途轍もない危機に見舞われる。当時2歳の長男が自宅アパートの窓から転落死を遂げ、そのわずか6週間後に生後6か月の次男も肺炎で死んだことで、妻との関係が破綻して修復不能の家族崩壊に至ったのだ。ふつうであれば、すっかり心が折れてしまったとしてもおかしくない局面だろう。



 ところが、である。あたかもこの危難がきっかけとなったかのごとく、かれは以後、『ヴァイオリン協奏曲第3番』(1880年)、『アルジェリア組曲』(1880年)、『七重奏曲』(1881年)、『交響曲第3番〈オルガン付き〉』(1886年)などの傑作を続々と生みだして世界的な名声をかちえる。そんな流れのなかに『動物の謝肉祭』も置いて眺めてみると、とうてい子ども向けの単純なパロディ作品と見なすことはできない気がするのだ。



 実は、わたしがいちばん惹かれるCDは、世界的な女流ピアニスト、マルタ・アルゲリッチが2013年にスイスのルガーノ音楽祭で若い演奏家たちと行ったライヴ録音だ。これは、サン=サーンスが構想したオリジナルのとおりの、ピアノ(2)、ヴァイオリン(2)、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、フルート、クラリネット、パーカッションの計10名のプレイヤーによるもので、そこには安直なパロディの気配など微塵もなく、むしろ終始、胸苦しいまでに真摯な響きに満たされている。この演奏を聴くと、わたしはサン=サーンスが希望にあふれた教師時代にひらめいたアイディアを、はるか後年になって天国へと旅立ったふたりの幼い息子のために仕上げ、だからこそ内輪の演奏のみで封印してしまったと思いたくなる。



 そう。それはひそやかなレクイエムだったのかもしれない、と――。



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍