フランス語版『メリー・ウィドウ』
女、女、女、女!
その足元に横たわっていたものは
628時限目◎音楽
堀間ロクなな
『メリー・ウィドウ(陽気な未亡人)』は、いつでもわたしを夢見心地に誘ってくれる。これはオーストリア=ハンガリー帝国生まれの作曲家、フランツ・レハールが1905年、35歳のときに発表して一躍世界的な名声を博したドイツ語のオペレッタ(喜歌劇)だ。
舞台はアール・ヌーヴォー期のパリ。バルカン半島の小国ポンテヴェドロからハンナ・グラヴァリという「陽気な未亡人」がやってくる。大富豪と結婚してわずか8日後に死別して、莫大な遺産を手に花の都にデビューしたのだ。そこで、ポンテヴェドロの大使館では、彼女が社交界のパリジャンと再婚したら国庫損失の一大事だとして、高級キャバレー「マキシム」で遊興に暮れる書記官のダニロ・ダニロヴィッチ伯爵を呼びつけ、未亡人を口説き落とすように命じる。実は、ダニロとハンナにはかつて愛しあいながら身分違いのせいで破綻した過去があり、思いがけず再会したいまなおわだかまりを引きずっていたものの、そんなふたりの心もやがて少しずつ開かれて……。いわば、いまだ分別には遠い男女の他愛ないロマンスなのだが、「ワルツ」に代表される優美な旋律に哀愁を溶け込ませたレハールの音楽によって、白日夢の世界が広がっていくのだ。
ところが、である。つい最近、わたしはスイス・ジュネーヴ大劇場の公演映像(1983年)により、初めてフランス語版の『メリー・ウィドウ』と出会った。とりわけ大衆的なエンターテインメントのオペレッタではさまざまな言語の公演が珍しくなく、当初は聞き流していたところ、そのうちフランス語版にはこれまで慣れ親しんできた作品の意味を見直させるほどのインパクトがあることに気づいたのだ。
もともと、フランスの劇作家アンリ・メイヤックの『大使館随行員』にもとづいて、ヴィクトール・レオン&レオ・シュタインがドイツ語の台本を作成したのが『メリー・ウィドウ』だったから、その初演から間もない1909年にガストン・ド・カイヤヴェ&ロベール・ド・フレールがフランス語版をつくった際には、たんなる翻訳というより、メイヤックの原作に立ち返ろうとする意図があったろう。
そうした結果、固有名詞にも異同が生じ、たとえば国名はポンテヴェドロからマルソヴィとなり、主役の未亡人もハンナ・グラヴァリからミシア・パルミエリに変わっている。のみならず、そのミシアについてはアメリカ大陸の出身で、まだ少女のころにダニロ(かれの名前は同じ)と恋愛沙汰があったのち、20歳になって大富豪に見初められて結婚し、数か月後に夫が死去すると、12年のあいだ未亡人の立場をとおしてからパリにやってきたという、まったく異次元の設定がなされている。
すなわち、こういうことだろう。『大使館随行員』が『メリー・ウィドウ』となったときの平明な世界観に対して、空間的・時間的な多層構造を持ち込むことにより、あらためてレッキとした分別盛りの男女のロマンスに仕立て直したのだ(実際、前記のスイス・ジュネーヴ大劇場の公演ではそれにふさわしい貫禄のあるソプラノ歌手がミシアに扮している)。さらには、パリの社交界のきらびやかな背景とドイツ語によって演じられる田舎臭い人間模様のミスマッチがもたらす素朴な滑稽さは、フランス語に変わったことで当然ながら影をひそめ、ストレートに人間喜劇の内奥に迫っていくことに。かくして、フィナーレでは「マキシム」の踊り子たちがカンカンを披露し、登場人物全員によって「女、女、女のマーチ」がうたわれて賑々しい女性賛歌を繰り広げる。
女、女、女、女!
男たちを惑わせる女の心はわからない
ああ、それが女
目の色が何色でも、髪の色が何色でも
男はみんな虜になってしまう!
そこで、わたしは突如、頭をぶん殴られるような衝撃を受けた。『メリー・ウィドウ』をひときわ愛好した人物のひとりに、のちのドイツ第三帝国の総統アドルフ・ヒットラーもいた。愛妻ゾフィーがユダヤ人だったレハールはこの反ユダヤ主義者に取り入らざるをえず、新たにこのオペレッタ用の序曲をつくってスコアをプレゼントしたりしたため、第二次世界大戦後に非難を浴びる運命が待っていた。こうした歴史を振り返ってみたとき、果たして「目の色が何色でも、髪の色が何色でも」といった歌詞の足元に横たわっていたものとは……。とうてい夢見心地に酔ってばかりはいられない現実の不条理を、フランス語版の『メリー・ウィドウ』は伝えているように思えたのである。
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