久生十蘭 著『昆虫図』

すぐ銀蝿が来て、
それから蝶や蛾が来て


629時限目◎本



堀間ロクなな


 あでやかな恐怖。久生十蘭の『昆虫図』(1939年)を前にすると、そんな言葉が浮かびあがってくる。手元の文庫本ではほんの3ページ半の分量だから、短篇小説やショートショートというより散文詩といったほうがふさわしい気がする。いっそ全文を書き写してしまえば話が早いわけだが、ここはやはりわたしなりの読み解きで紹介してみよう。



 青木が女連れで路地裏の湿っぽい土地に越してくると、地続きの隣家には元薬剤師という貧乏画家の伴団六と陰気な細君が住んでいて、ふたりはときどき騒々しい夫婦喧嘩をしていた。晩秋のある日、青木がぶらりと立ち寄ったところ細君の姿が見当たらず、団六は病気で郷里に帰ったと説明し、最近、蝿のせいで仕事が手につかないという。そのあとに続く文章。



 なるほど、ひどい蝿だ。

 壁の上にも硝子天井にも、小指の頭ほどもある大きな銀蝿がベタいちめんにはりついていて、なにか物音がするたびに、ワーンとすさまじい翅音(はおと)をたてて飛び立つのだった。どこからこんなに蝿が来たのだろう。



 それからまた1週間ほどして出かけたら、乳剤の噎せ返るような辛辣な匂いが立ち込めていて――。



 蝿は一匹もいなかった。しかし、今度は蝶々だった。

 紋白や薄羽や白い山蛾が、硝子天井から来る乏しい残陽に翅を光らせながら、幾百千となくチラチラ飛びちがっている。そこに坐っていると、吹雪の中にでもいるような奇妙な錯覚に襲われるのだった。



 青木が家に帰って女にそのことを伝えると、彼女は暢気に見物しに行って戻ってくるなり、青い顔で「あんな大きな蛾って見たことがない」と告げた。その深夜、青木はふと目を覚まし、枕元にすわった「大きな眼」の女がこう口にするのを聞く。



 「……あたしの郷里(くに)では、人が死ぬとお洗骨(さらし)ということをするン。あッさりと埋めといて、早く骨になるのを待つの。……埋めるとすぐ銀蝿が来て、それから蝶や蛾が来て、それが行ってしまうとこんどは甲虫がやってくるン」



 ここに至れば、もはやハナシの先行きは明白だろう。しかし、わたしはそれよりも枕元にすわった「大きな眼」の女の正体のほうが気になった。当たり前に考えれば、青木の連れあいか、団六の細君の亡霊ということになるのだろうが……。



 「人びとの、花、蝶やと愛づるこそ、はかなくあやしけれ。人は、まことあり。本地尋ねたるこそ、心ばへをかしけれ」



 これは、『堤中納言物語』(平安時代後期)に収められた有名な『虫愛づる姫君』のヒロインの言葉だ。高貴な家柄に生まれながら、もっぱらイモムシのたぐいのコレクションに余念がない姫君は、世間の人々が蝶を美しいと好むのは浅はかで、どうしてイモムシが変身したのか、生命の根源を探求していくことが正しいと主張している。今日の言い方をするなら、エコロジー(生態学)的な把握の仕方で、その目線はおのずから団六の家におびただしい昆虫を発生させた条件にも向かっていくはずで、こうした意味で「大きな眼」の女は虫愛づる姫君のはるかな後裔であったろう。彼女たちはあでやかな恐怖の世界を見つめてやまないのだ。



 かくて、結びの場面がやってくる。



 五日ほどののち、団六のところで将棋をさしながら、青木が、フト畳の上を見ると、乾酪(チーズ)の中で見かけるあの小さな虫が、花粉でもこぼしたように、そこらいちめんウジョウジョと這い廻っていた。

 いま二人が坐っている真下あたりの縁の下で、何かの死体蛋白が乾酪のように発酵しかけていることを、はっきりと、覚った。



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍