落語『寿限無』『子ほめ』『松竹梅』
横丁のご隠居さんの
意味合いとは?
630時限目◎落語
堀間ロクなな
手元に面白いCDがある。俳優の顔も持つ落語家・柳家喬太郎が『寿限無』『子ほめ』『松竹梅』を披露した独演会(2007年2月、横浜にぎわい座)のライヴ録音だ。これらの古典落語に共通するものが何か、おわかりだろうか? そう、いずれも「横丁のご隠居さん」がキイパーソンとして登場することだ。したがって、三演目をとおして、まんなかにご隠居さんがどんと居据わり、そこに長屋の住人たちが入れ替わり立ち替わり訪れては椿事を繰り広げるという、約75分間におよぶひとつながりの噺となった次第。
まず、はじめの『寿限無』では、熊さんがやってきて、赤ん坊が生まれてお七夜を迎えた本日、いつまでも元気で長生きするような名前をつけてほしいと頼み込む。そこで、ご隠居さんが長寿にちなんだ言葉をあれこれ列挙すると、熊さんはそれらを全部つなげて「寿限無、寿限無、五劫のすりきり、海砂利水魚の、水行末・雲行末・風来松、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじやぶこうじ、パイポ・パイポ・パイポのシューリンガン、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの、長久命の長助」と名づけ……。
ついで、『子ほめ』では、八つぁんがひとさまからお酒の一杯でもおごってもらう術を尋ねたのに対して、ご隠居さんは相手の若々しさをことさら持ち上げるお世辞の作法を伝授してやる。しかし、八つぁんは往来に出るなり伊勢屋の番頭さんに用いようとしてしくじり、竹さんの住まいに押しかけ生まれたばかりの赤ん坊に向かって「おやおや、ひとつ(一歳)にしてはたいそうお若く見えます」などと褒めてしくじり……と、こちらの顛末もまた、広く知られているところだろう。
それにしても、あらためて考えてみると、われわれがとんと見かけることのない、この横丁のご隠居さんとは何者なのか? 評論家の小林秀雄は還暦を間近にしたころに「現代思想について」と題した学生対象の講演会(1961年8月)で、隠居という存在を論点にしている。かれは隠居を英語ではどう表現するのか気になって、専門家に尋ねたらカントリー・ジェントルマンという回答が返ってきて、それはまるで違う、どうやら隠居とは東洋ならではのあり方らしいとハナシを進めていく。そこで、「陸沈」という中国の古い言葉を引いて、もともと専制国家にあって社会から身をひそめ、もっぱら文化の保持にいそしんだ文人の生き方を指すものだとしたうえで、こんなふうに敷衍してみせる。
「社会から逃げるのではなく、社会のなかに沈む、街のなかに沈むんです。ジェントルマンじゃない、横丁の隠居になる。そして、世間と親しくつきあうんです。だから、隠居はばかにされながら尊敬もされているんだな。世間から逃げない、天にも行かない、地獄にも行かない、だけど沈むんです。そういう意味合いがあると思うんですね」
柳家喬太郎の三番目の演目『松竹梅』では、横丁のご隠居さんのもとに長屋の松三郎、竹次郎、梅吉がやってくる。本日これから伊勢屋で若旦那の婚礼のお披露目が開かれるにあたって、松、竹、梅のおめでたい三人組に、祝儀をつけるための余興をやってもらいたいとの招待状が届いたとのよし。そこで、ご隠居さんは、松さん、竹さん、梅さんの順に謡の要領で「なったあ、なったあ、蛇(じゃ)になった、当家の婿殿蛇になった」「なに蛇になあられた」「長者となあられた」と口上を述べる芸の稽古をつけてやって送りだした。三人組は伊勢屋で豪勢な料理と酒が振る舞われて、いよいよ余興を行う段となったところ、松さんと竹さんはなんとかこなしたものの、結びの梅さんが「長者」を「亡者」と言い間違えて大失敗。松さん、竹さんはすっかり泡を食ってご隠居さんのもとへ取って返し、あとに残してきた梅さんのことを気づかうと、ご隠居さんが笑いながらこう告げてオチとなる。
「なあに、梅さんだもの、いまごろお開きになっているだろう」
そう言うなら、まったくの無意味。名前ばかりでなく、おつむのほうも少々おめでたい三人組に愚にもつかぬ余興芸をやらせて、失敗したとてだれひとり痛くも痒くもないことを見越して、あっけらかんと笑い飛ばしてみせる。そこになんら建設的な意味はないにせよ、とかくギスギスと摩擦が生じがちな世間にとってはひと滴の潤滑油となり、過去から未来へと向かう時の流れに棹を差すぐらいの役には立つはずだ。無意味の意味。それが小林秀雄の論じた「隠居の意味合い」であり、いまの日本の高齢化社会において最も欠けているものでもあるだろう、とわたしは考えている。
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