ジャック・リヴェット監督『美しき諍い女』

女性の肉体の
すべてが美である!!


633時限目◎映画



堀間ロクなな


 わたしは20年あまり、さまざまな雑誌の編集業務に携わったが、そのなかには業界でいうところのモード誌とファッション誌もあった。両者はフランス語と英語のネーミングの違いに過ぎないものの、女性の美という同じ主題に対して真逆のベクトルのうえに成り立っている。ひと言で要約すれば、前者は芸術、後者は実用。



 モード誌においては、女性の肉体はそのままで美しい、痩せていても太っていても胸が小さくても大きくても美しいのだから、服飾はそれを邪魔することなく引き立てるべきものとの前提に立つ。一方、ファッション誌においては、女性の肉体はそのままでは見るに堪えないのだから、服飾はあの手この手で誤魔化して美しさを演出するべきものとの前提に立っているのだ。かくて、読者の女性たちはモード誌に理想を託しつつも、現実にはファッション誌を日常の参考として……。



 そうした女性の美をめぐる二律背反について、ジャック・リヴェット監督のフランス映画『美しき諍い女(いさかいめ)』(1991年)は鮮やかに解き明かしてみせたといえるだろう。



 プロヴァンスの古城に住む老画家フレンホーフェル(ミシェル・ピコリ)は、かつて妻をモデルとして17世紀の高級娼婦に由来する「美しき諍い女」と取り組んだものの挫折して以来、もう10年ほど絵筆を手にしていなかった。そこにある日、画商が若い新進画家とその恋人マリアンヌ(エマニュエル・ベアール)を連れてきて紹介したことから、フレンホーフェルの創作意欲にふたたび火がつき、マリアンヌをモデルにあらためて「美しき諍い女」に立ち向かうことに。



 そのアトリエでの光景が凄まじい。フレンホーフェルは当初こそ穏やかな態度を示していたが、やがてマリアンヌを全裸にさせるとさまざまなポーズを取らせるようになり、さらには頭や首を力まかせにひねったり、両腕を捻じって交差させたり、骨がきしむほど背中を反らせたり、片足を屈曲させると同時に片足を爪先立ちさせたり……と、つぎからつぎへ過酷きわまりない要求を出しては、猛然とカンバスに筆を走らせていく。こんなウワゴトめいた言葉を口走りながら。



 「からだの全体だ。部分などいらない。胸も脚も口も問題じゃない。それ以上だ。きみのなかにある血や炎や氷のすべてを掴みだす。外に引っ張りだして、カンバスに刻みつけてやるのだ」



 女性の美とは見てくれではない、肉体のすべてが美なのであり、それを徹底的に凝視するのが自己の芸術だ、と宣言しているのだ。そんなフレンホーフェルの狂気を孕んだ執念にマリアンヌも次第に取り込まれ、たがいに共鳴しあうようになって、ついに制作4日目に「美しき諍い女」は完成する。しかし、それが果たしてどのような絵画であったのかはわからない。というのも、フレンホーフェルはできあがった「美しき諍い女」をただちにレンガ壁のなかに埋め込んで永遠に封印してしまい、そのあと、もうひとつの「美しき諍い女」を手早く仕上げ、それをもって披露パーティを開いて、買い取りにやってきた画商や知人友人、さらには映画を眺めるわれわれの前に差しだしたのだから。



 神秘に闇に閉ざされた「美しき諍い女」と美術市場に流通する「美しき諍い女」。それは女性の美をめぐる芸術と実用という二律背反のアレゴリーであり、あえて敷衍すれば、モード誌とファッション誌の対比とも見て取れるのである。



 ついでにもうひとつ、わたしが体験したエピソードを報告しておこう。モード誌の管理職の立場にあったときのことだ。日本のある「ファッション」のブランドから、当社の商品を「モード」として誌面に掲載してくれるならン百万の広告費を支払うとの申し入れがあった。ただし、とその女性社長は注文をつけた、もしモデルがブラジャーをつけたらNGだ、と――。いわば、ブラジャーとは実用の「ファッション」と芸術の「モード」を分かつシンボルなのだった。



 撮影当日、わたしは専門のディレクターが取り仕切るスタジオへ乗り込むと、カメラマンにあらかじめ撮らせたポラロイド写真をためつすがめつしたものだ。もしモデルのポーズや光の加減でブラジャーの有無がはっきりしなかったらン百万円の収入が吹っ飛びかねない、シースルーの生地をとおしてちゃんと乳首が見えるかどうか、その一点だけを確かめるために。あれほど女性の乳首に執着したのは、おそらく母乳を吸っていた赤ん坊のとき以来のことだったろう。



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍