シューベルト作曲『楽興の時』
3人のピアニストは
そのときこの曲をどう弾いたか
634時限目◎音楽
堀間ロクなな
音楽とともにある、いまこの瞬間の喜び――。フランツ・シューベルトによる『楽興の時』のタイトルを読み解くなら、さしずめそんな意味合いになるだろう。このピアノ曲集はかれの他の多くの作品と同じく、なんのためにどのようにして作曲されたのかはっきりしない。ただし、1823年以降折に触れて綴られた六つの抒情的小品をまとめて、1828年7月に出版されたという経緯がわかっている。それは、シューベルトがわずか31歳で世を去る4か月前のことだった。
すなわち、『楽興の時』を冠した作品は、シューベルトが若気の至りの遊蕩のせいで梅毒に罹患して、早すぎる晩年を迎えてしまったなかで生みだされたものであり、いかにもロマン派の先駆けの作曲家にふさわしく起伏に富んだ旋律の背後には、ひたひたと歩み寄ってくる死の重い足取りを前にした心境が編み込まれていたのだ。だからだろう、世界的なピアニストたちが人生の最後にあえてこの曲集を取り上げた例をわれわれは見ることができる。
まず、ウィルヘルム・バックハウス。1884年にドイツのライプツィヒで生まれ、風格のあるピアニズムで「鍵盤の獅子王」と呼ばれ、ベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ』全集と『ピアノ協奏曲』全集に金字塔となるレコードを残したかれは、1969年7月に85歳の生涯を終えた。その直前、病身を押して、オーストラリアのアルプス山麓にある教会で2回のリサイタルを開いたときのライヴ録音が残っていて、初日の6月26日にベートーヴェンの『ワルトシュタイン』のあとに、この『楽興の時』を弾いたのだった。やや速めのテンポを取りながら揺らぐことなく、あらゆる飾り気を取り去って寂寥感だけが疾駆するようなこの演奏を聴くと、わたしはなぜか芭蕉の最後の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を思い起こしてしまう。そして、二日目の6月28日のリサイタルの途中で体調を崩して退場したまま、バックハウスは帰らぬひととなった。
ついで、フリードリヒ・グルダ。シューベルトと同じウィーンで1930年に生まれたかれは、やはりベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ』全集と『ピアノ協奏曲』全集のレコードでバックハウスに対抗する名声を博した一方で、ジャズのステージでも活躍して奔放自在なピアニストの生き方を貫き、2000年1月に69歳で他界した。その前年にオーストリアのヴァイセンバッハ村にあった自宅のスタジオで生涯最後の録音を行った際、シューベルトの『即興曲』とともに選ばれたのが『楽興の時』だ。とかく洒脱なエンターテインメントぶりを持ち味とするグルダだったが、ここではまるでダイヤモンドを切りだすかのごとく息苦しいまでに張りつめた演奏を披露して、その胸中に去来した思いをめぐり、CDのライナーノーツにつぎのような文章を寄稿したのだった。
「シューベルトの作品の根底には、脱落と別離、病と死に対する極めてウィーン的な想い、そしてウィーン人にしか本質を理解できない、微笑みながら自殺するといった感覚が流れている。〔中略〕あの雰囲気にのまれることに対して私は今も昔も、命とりになりかねないという危機感を覚える。真剣に曲に取り組むためには必然的にあの雰囲気に浸らなくてはならないのだが、根っからのウィーン人である私は、シューベルトのあの破滅的な心の谷間に自分から飛びこんでいくことを警戒し、ためらい、恐れてしまう。だからこれらの作品を録音しながら、私は幾度も涙をこぼしそうになり、無事終わったときは命を落とさずに済んだことに安堵した」(岡本和子訳)
もうひとり、ディーナ・ウゴルスカヤ。1973年にソ連時代のロシアのレニングラード(現在のサンクト・ペテルブルク)で、高名なピアニストのアナトール・ウゴルスキの娘として生まれ、その父親の手ほどきで幼くして演奏活動をはじめ、1990年に一家でドイツに亡命してからは順調に国際的なキャリアを築いていった。ところが、まさにピアニストとして円熟期を迎えたタイミングでがんに冒されて、2019年9月に46歳で永眠した。おそらく本人も遺作のつもりで臨んだのだろう、最後のCDのジャケットには、抗がん治療のために短髪となった彼女が澄んだ灰色の瞳でじっとこちらを見返してくる姿が映っている。そこではシューベルトの『ピアノ・ソナタ第21番』などとともに『楽興の時』が演奏されて、とうてい重病とは思えない力強い打鍵がそれだけにみずからの運命に対する諦観を伝えてきて、わたしは言葉を失うのである。
音楽とともにある、いまこの瞬間の喜び。われわれもまた、その意味は死を目の前にしたときに初めて理解できるのかもしれない。
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