サイ・モンゴメリー著『神秘なるオクトパスの世界』
この地球上に誕生した
もうひとつの知的生命体がいま
635時限目◎本
堀間ロクなな
先般、テレビのニュースが世界的なタコの漁獲量減少により価格高騰の傾向にあることを伝えていた。その原因には地球温暖化にともなう海水温の上昇や栄養不足などが考えられ、将来的に高級食材となってタコ焼きも姿を消すかもしれないという。むろん、それはそれで憂慮すべき事態だろうけれど、わたしはタコ焼きよりもずっと重大な問題がひそんでいるように思った。なぜならちょうど、ナショナル ジオグラフィックのドキュメンタリー番組と連動したサイ・モンゴメリーの著作『神秘なるオクトパスの世界』(2024年)を読んだところだったからだ。
欧米では「デビルフィッシュ」という異名を持つとおり、タコがわれわれの常識に収まり切らない生きものだとはぼんやり知っていたが、最新の研究成果をまとめた本書は、そんなかれらの能力についてつぎのように要約してみせる。定木大介訳。
骨がなく、毒を持ち、強力な吸盤がついた8本の腕(最大の種ミズダコは大きな吸盤1つで16キロの重さを持ち上げることができ、しかも1本の腕にそれが200個も並んでいる)を備えるタコという生き物は、宇宙を舞台にしたSFでしかお目にかかれないような種々の異能に恵まれている。例えば、タコは全身のあらゆる皮膚で味を感じることができる。また、墨を吐くことができるが、これは煙幕として、あるいはウミガメがだまされて食いつくほど食欲をそそる “おとり” として機能する。筋肉を分解する酸や神経毒を垂らすこともできるし、雌は卵の連なりを巣の屋根や側面に付着させるための接着剤を分泌することもできる。
しかし、タコならではの超能力と言えば、体の色や形を自在に変える幻惑能力である。しかも彼らはそれを、人間が瞬きするよりも速くやってのける。
こうした数々の能力を支えているのが、タコの特殊な神経系の形態らしい。人間の場合は神経系を構成する860億個のニューロン(情報処理の細胞)のほとんどが脳にあるのに対して、かれらの脳はごく小さな構成要素にすぎず、全ニューロンの5分の4(おそらく3億5000万個)は8本の腕のなかにあって、それぞれが脳のような情報処理センターの役割を担っているばかりでなく、もし腕の1本を切り離したときには独力で行動することができるというのだ。まさに「デビルフィッシュ」にふさわしいつくりなのだが、そんなふうに受け止めるのはわれわれの一方的な偏見で、実はもっとロマンティックな生きものかもしれない。
タコの皮膚は白く、滑らかに見える。外套膜は頭の後ろに力なく垂れ下がり、腕は動かず、目は閉じられている。〔中略〕やがてハイジの皮膚がレモン色に変わる。乳頭状突起が隆起し、体が赤褐色に瞬いたかと思うと、再び白くなる。外套膜が心臓のように脈打ち、皮膚の色が濃くなり、黄に茶が混じったまだら模様を呈する。皮膚は刺々しい。閉じたまぶたの下で球根のような目が旋回する。外套膜の色がじわりじわりと変化していき、腕の湾曲した先端がくるくると回る。
これは、アラスカの研究者がハイジと名づけたワモンダコの睡眠中の様子を報告したものだが、水槽のなかには彼女が色、質感、形を変化させる要因が何ひとつ見当たらなかったため、最終的に辿り着いたのは、自己の内的ドラマに反応している可能性があるという見解だった。そう、ハイジは眠りながら夢を見ていたのだ!
タコとその仲間の頭足類は、いまから少なくとも3億2800万年のカンブリア紀初期に出現し、数次にわたる大量絶滅期を乗り越えて存続してきたが、そのプロセスで脊椎動物とはまったく異なるルートでたぐい稀な知性を進化させてきたという。すなわち、当初はオウムガイのように備えていた頑丈な殻を失ったことにより、おびただしい捕食者にさらされる運命を負った反面で、それに対抗して自由に泳ぎまわり、さまざまものを学習・記憶して、ついにはみずからの内的世界を所有するまでに至ったのだ。この地球上に誕生した、人類とは別種のもうひとつの知的生命体。最近のテレビが報道する世界的なタコの漁獲量減少は、そうしたかけがえのない存在がSOSを発していることを意味するものではないだろうか?
最後に、日本で広く食用とされているミズダコの性質について、本書が紹介しているところをつけ加えておこう。
ミズダコの9つの脳を刺激するには、必ずしも食べ物による動機づけは必要ない。何匹かの飼育個体によって、この種が道具を使い、パズルを解き、純粋に遊びを楽しむ能力を備えていることが示された。ミズダコが瓶を開け、ルービックキューブをひねり、おもちゃを振ったり引っ張ったり吸い上げたりするのを、研究員が観察している。純粋に楽しむためにそうしているようだが、繰り返すうちに興味を失うのは人間と変わらない。同じことを長く続けていると飽きてしまうのだ。
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