ワーグナー作曲『パルジファル』

きよらかなる
愚か者の存在理由とは?


636時限目◎音楽



堀間ロクなな


 リヒャルト・ワーグナーの最後のオペラ作品『パルジファル』(1882年初演)にはどこか、鵺(ぬえ)のようなとりとめのなさがまとわりついている。というのも、すでに70歳近となったワーグナーが、バイエルン国王ルートヴィヒⅡ世の財政的支援で建設したバイロイト祝祭劇場のために門外不出の「舞台神聖祝祭劇」としてつくりあげたもので、かれの作品としては著しく宗教色が濃く、まるでオラトリオを思わせるような対話劇がえんえん繰り広げられていくからだ。さらに、われわれ日本人にとってはいっそう理解を遠ざけている事情がある。



 舞台はスペイン北部の深い森。そこは救世主イエス・キリストにちなむ聖槍と聖杯を託された聖杯守護騎士団が拠点としていたが、邪悪な魔法使いに聖槍を奪われたばかりか、それによって主宰者の王が不治の傷を負わされて騎士団は崩壊に瀕し、この危機を救うのは「同情によりて知を得る、きよらかなる愚か者」(渡辺護訳)との神託を受けていた。すると、かれらの前に自分の名前も素性も知らない若者が出現し、愚かさのあまり誘惑の試練をものともせず魔法使いから聖槍を取り返して、騎士団の新たな王に就くまでが描かれる。そうした物語の根底には、キリスト教世界における佯狂者や聖痴愚などの「愚か者」の系譜が脈打っているわけだが、一方で、儒教文化圏にあって孔子の「十有五にして学に志し、三十にして立つ」といった言葉に親しんできたわれわれには、この「愚か者」の存在理由がもうひとつぴんとこないのも無理ないと思うのだ。



 そこで、ほんの少しでも「愚か者」に接近してみたいと、わたしなりにこんな思考実験を行ってみた。



 小学校に上がったばかりくらいの子どもが道で十円玉を拾って交番に届けたらきっと褒められるだろうし、気の利いた巡査であれば代わりに自分の財布から十円玉を出してご褒美に与えるかもしれない。さて、それが子どもではなく、いい歳をした大人が同じく道で十円玉を拾って交番に届けたらどうなるだろう? 法律的にも倫理的にも正当であるにもかかわらず、たいていの巡査は怪訝な目を向けたあとで笑い飛ばすか、悪ふざけだと怒りだすのではないか。



 話を進めよう。今度は子どもが「サンタクロースはいる」といったときにわれわれは微笑んで頷くだろうが、大人が「サンタクロースはいる」といったときにはあんぐり開いた口がふさがらないだろう。では、子どもが「神さまはいる」といったときと、大人が「神さまはいる」といったときは? ここに至って、われわれはようやく思い知るのだ。大人たちもしばしば「神さま」を信じているというけれど、「十円玉」も「サンタクロース」も信じないかれらにとって「神さま」とはしょせん打算が働いたものに過ぎず、子どもと同じように「十円玉」も「サンタクロース」も信じられる「愚か者」だけが「神さま」を真っ正直に信仰できるのだ、と――。



 ワーグナーのオペラでは、パルジファルと名乗ることになったこの若者こそ長らく待ち望んでいた「愚か者」だと悟った聖杯守護騎士団の長老が、泉の水をその頭に注ぎかけながら宣告する。



 「浄き人よ、清らかな水による祝福を受けよ! あらゆる罪の気づかいはそなたから消え去るように!」



 かくして、ついに現実世界との同化を果たした「愚か者」は全身からまばゆいばかりの光輝を放つ……、オーケストラ・ピットの指揮者はそんな予定調和の結論へと運んでいくのがつねだ。正味で4時間前後を要するこの作品の、ともするとただの絵空事となりかねないとりとめのなさに対してあの手この手の工夫を凝らしながら。ところが、ここにまったく正反対のアプローチをやってのけた指揮者がいる。ハンス・クナッパーツブッシュ。第二次世界大戦後に再開されたバイロイト音楽祭において、1951年から64年にかけてほぼひとりで『パルジファル』のタクトをとり続けたかれのやり方は、残された録音で聴くかぎり、他のだれにも真似できない代物だった。悠然たるテンポで、とりとめのないものをとりとめのないままに再現する。その結果、逆に現実世界のほうが「愚か者」への同化を果たして、世界全体が燦然と光輝を放ちはじめるのだった!



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍