三島由紀夫 原作・製作・脚色・監督・主演『憂國』

あたかも軍服が
支配するかのように


637時限目◎映画



堀間ロクなな


 私の演出プランは、青年将校の役をまつたく一個のロボットとして扱ふことであつた。彼はただ軍人、ただ大義に殉ずるもの、ただモラルのために献身するもの、ただ純真無垢な軍人精神の権化でなければならなかつた。私は、あらゆる有名俳優の顔や表情がそのイメージを阻害することを知つてゐた。そこで、武山中尉に能面と同じやうに軍帽を目深にかぶらせ、彼の行動を軍帽と軍服で表現しようとした。彼の一挙一動は、生きてゐる人間が行動するといふよりも、軍帽と軍服が行動させなければならなかつた。



 三島由紀夫が映画『憂國』(1965年)について書き留めた文章の一節である。



 この映画は、自作の同題の短篇小説(1961年)をもとに、みずから製作・脚色・監督・主演をこなしてつくりあげた上映時間28分ほどのモノクローム作品だ。1970年(昭和45年)11月に三島が「楯の会」のメンバーと陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に押し入り、クーデターを呼びかけたあげく割腹自殺するという事件が起きたあと、遺族の強い意向によって封印されて「幻の映画」となっていたが、今世紀に入って奇跡的に復元され、現在では『三島由紀夫全集』補巻のDVDなどで視聴できる。



 ストーリーはあってなきがごとし。1936年(昭和11年)の二・二六事件に際して、首謀者の青年将校たちから新婚のゆえに決起に誘われなかった武山中尉が、潔く妻とともに自決を決意したとの設定で、映画はその最期の情景を描きだすというもの。能舞台を模したシンプルなセットには、武山中尉役の三島と妻役の女優・鶴岡淑子のふたりだけが登場して無言劇を繰り広げていくのだが、そこでひときわ重大な役割を担ったのが上記の引用文のとおり軍服だ。三島は劇中で着用する軍服を求めてほうぼうの軍用品店へ出向いたものの納得がいかず、結局、昔日の老職人を探しだすなどして新たに当時の軍服を再現したというから、その執着ぶりは尋常ではなかったらしい。



 戦争に出征することのなかった三島にとって、たとえ映画のためにせよ、レッキとした軍服を身につけたのはこのときが初めてだったのではないか。



 だからだろう、主人公の行動を軍帽と軍服で表現するという当初のプランを通り越すほどの乾坤一擲の演出が見て取れる。武山中尉は妻と最後の情を交わしたのち、頭に軍帽をのせた白ふんどし一丁の姿で日本刀をひっさげてみせ、いよいよ切腹の段になると、ふたたびまとった軍服の上衣をはだけて、腹部に突き立てた切っ先がじわりじわりと横に動くにつれ内臓がこぼれだして(豚の腸を使って撮影したという)全身血染めとなり、そこに剣で喉を突いた妻が倒れ伏して両者は一体となる……。三島ならではのエロスと死の結合を主題としたこのドラマの主役は、ことほどさように軍服だ。のみならず、軍服が三島を支配しているようにさえ見えてくるのである。



 この映画が完成して間もなく、三島は畢生の大作『豊饒の海』に立ち向かう一方で、自衛隊への体験入隊の希望を表明するとともに、左翼革命勢力への対抗として民兵防衛組織の創設に取りかかり、1968年10月に早稲田大学の学生らを率いて「楯の会」を発足させた。このとき、メンバーの制服として西武百貨店の堤清二社長の支援により、フランスのド・ゴール大統領の洋服をデザインしたという五十嵐九十九の手になるオーダーメイドの軍服をこしらえている。三島はエッセイ『男らしさの美学』(1969年)のなかで意気揚々とつぎのように主張したが、そこからは映画『憂國』のひそやかな反響が聞こえてこないだろうか?



 男の服装として、剣道着と軍服しか美しいものはないとすれば、服装とは、いかにゴマかしても、性の特質を、攻撃的戦闘的な男性の特質を表現するものに他ならぬ、といふことがはつきりするにちがひない。服装とは性的なものである。そして服装が性的なものから遠ざかれば遠ざかるほど、権力その他の抽象性の体現としてのゴマカシの技術に充ちたものになつてゆくのである。



 もとより、竹刀をふるわない者が剣道着をまとったところで剣道着は成り立たず、軍事行動をともなわない者が軍服をまとったところで軍服は成り立たない。あとは「権力その他の抽象性の体現としてのゴマカシの技術」に堕していくばかりだ。もし三島がこうした軍服への執着と無縁のままだったら、あのような最期を遂げることはなかったのかもしれない、とこの映画はそんな想像を掻き立てるのである。



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍