吉田秀和&丸山眞男 対談『芸術と政治』

ふたりの碩学が
そのとき警告していたのは


638時限目◎本



堀間ロクなな


 大顔合わせというべきだろう。いずれもカリスマ的な存在であった音楽評論家・吉田秀和と東京大学法学部教授・丸山眞男による対談だ(白水社版『吉田秀和全集』第24巻所収)。ドイツのジャーナリスト、クルト・リースの著作『フルトヴェングラー』の翻訳刊行を機に1959年に行われたもので、ナチの第三帝国で活動した大指揮者をめぐって政治と文化の関係が主題となったが、そのヴィルヘルム・フルトヴェングラーが世を去って5年、第二次世界大戦の終結からもまだ14年というタイミングだっただけに白熱した大議論が交わされた(上記の全集で25ページにおよぶ)。このうち、とくにわたしを瞠目させる論点をピックアップしてみたい。



 丸山は、作家トーマス・マンが『ドイツとドイツ人』で宗教改革の立役者マルティン・ルッターまで遡って解き明かしたように、ドイツ精神の根底には外的な肉の世界と内的な霊の世界を峻別する傾向があり、それが政治と文化の対立を形成するとしたうえで、フルトヴェングラーのように芸術のうえに居据わって、非政治的な立場から政治に向かって発言するのを苦手とするか、逆にいったん政治に首を突っ込んだら「毒喰わば皿まで」と権謀術数に走るかの極端な振幅の大きさがあるという。これを受けて吉田は、ドイツの音楽がよくなったのはルッター以後だから、そうした外と内の二項対立のもとにあるとして、つぎのように論じた。



吉田 それが政治の場に有力な力として出てきたときには、非常な災害を人類にもたらしちゃった。これは、音楽だけに話をかぎっても、大きな問題があると思うのですが、近代ドイツ音楽とは、つまり古典派からロマン派にかけての音楽のことですが、ドイツ音楽が世界のヘゲモニーを握った十九世紀に、音楽は完全に主観化し感傷的なものにおちてしまった。現代音楽は、いわばそれへの反動として始まったのです。それにしても、人間にとってはある種の非政治的な日常生活を送るということが必要なんですね。ある意味では、非道徳的(ウン・モラーリッシュ)なものだって、また、ワーグナーに典型的に見られるエロチックなものだって、それがないと人間が生きてゆけないんです。だから、ドイツ音楽を本当に演奏するにはナチの下であってはだめだというのを、もう少し超えたものがあるだろうというフルトヴェングラーの態度は、やっぱり一種の真理を含んでいると思うんです。



 どうだろう? ここで言及されているのが、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナーらの系譜であり、一般的には西洋クラシック音楽の本流と見なされてきただけに、かれらが音楽本来の姿を「主観化」「感傷的」の方向に歪めてしまったとする吉田の見解は常識を根本から覆すものといえるのではないか。しかも、それはたんに過去の歴史をめぐる評価にとどまらず、吉田が指摘する「非政治的な日常生活」のあり方とあいまって現代に生きるわれわれの抱え込む問題へと直結しているようなのだ。丸山は、経済学者フリードリヒ・ハイエクの『隷属への道』を手がかりに、かつてナチがさかんに使った「フライツァイト・ゲシュタルテン(自由時間の形成)」という言葉を俎上にのぼせて、こんなふうに敷衍した。



丸山 本来、外からゲシュタルテンされないからこそ自由時間なんでしょう、だからこれは形容矛盾なんですよ、しかしナチは実際これをやったと思うんですね、だから文字どおり息がつけないんです。〔中略〕しかしこれは、現代の政治権力――西欧のデモクラシーであろうと、コミュニズムであろうと、そういう傾向性というものは、多かれ少なかれ持っていると思うんです。ナチほど極端じゃないけど。それで昔のような意味におけるフライツァイト(自由時間)というようなものはだんだんなくなってきた、と思うんです。日本なんかもともとプライヴァシーという観念がないからよけいそうなんですけど、テレビとラジオの音を聴かないところで暮そうということは非常に困難なんでね。〔中略〕現在の場合は、いわば余暇がマス・コミに占拠されてるという状態なんですけれども、それも結局政治や経済の力と結びついているのですから、見えないところで、気のつかないうちにゲシュタルテンされているともいえる。



 今日からすれば、丸山の挙げたテレビ、ラジオにさらにインターネットを加えるべきだろうが、われわれはこうしたメディアにすっかり取り込まれてしまった現実が暴かれているのだ。なるほど、自分としては開かれた政治体制のもとで、おのれの意のままに自由時間を使って主観化された芸術や文化を享受しているつもりでも、ことごとく幻想であり、しょせん政治・経済の権力にがんじがらめに支配されていることでは、ナチ時代のフルトヴェングラーと大同小異の構図にあるのかもしれない。碩学の両者による対談は、後世のわれわれに重大な警告を残していたのである。



 【追記】

 この対談『芸術と政治』は、河出文庫の吉田秀和著『フルトヴェングラー』にも収められて手軽に読むことができます。



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とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍