カミュ著『異邦人』

日本語訳の題名を 
「人外」としてみたら 


 640時限目◎本



 堀間ロクなな


  アルベール・カミュの小説『異邦人』(1942年)に関して、いや、正確を期するならその日本語訳に関して、わたしはかねてひとつの疑問がある。



  フランスの植民地だったアルジェリアが舞台。青年ムルソーは養老院で死んだ母親の葬儀に列席して涙ひとつも流さなかった翌日、久しぶりに再会したガールフレンドとコメディ映画を見て笑い転げたあと一夜をともにし、やがていかがわしい女衒(ぜげん)をなりわいとする友人と海水浴に出かけると、砂浜でアラビア人に向かっていきなりピストルを5発ぶっ放して、裁判ではその動機を「太陽のせい」と言明する……。この不条理の文学とされる作品について、日本でも親しまれてきた理由のひとつは「異邦人」というエキゾチックな題名にあるのではないか。実のところ、そこに疑問を持っているのだ。



  「異邦人」とは「邦人」との対比でも明らかなとおり、本来、外国人を意味する。この作品のフランス語の原題「L'Étranger」は外国人も指すが、もっと幅広く得体の知れない余所者の意味合いがあるようで、主人公ムルソーはアルジェリアに生まれ育ったサラリーマンで外国人ではないのだから、英語では「The Stranger」や「The Outsider」の訳語をあてている。すなわち、われわれが暮らす社会の規範の外にいて相互理解の困難な人物といったニュアンスであり、だとするなら、日本語に果たしてどんな表現がありえるだろう?



  「人外」



  これは、かつて江戸川乱歩の小説『影男』(1955年)のなかで出くわした言葉だ。他で見聞したことがないから世間でどの程度流通しているのかわからないものの、乱歩によれば「人間の形をして人間ではない化けもの」という意味だそうで、まさにムルソーのような人物にふさわしい気がする。しかも、題名が「異邦人」では、ムルソーの特異なパーソナリティに光が当たり、いわば焦点がひとつだけの円形のドラマと受け止められがちなのに対して、もし「人外」としたときには、社会の規範をめぐって「内」と「外」という、ふたつの焦点ができることで楕円形のドラマが立ち上がってくるだろう。



  たとえば、「内」の代表として、ムルソーの裁判で敵役となる検事の発言に注目してみよう。最後の論告求刑の一節だ。



  「この男は、諸君、この男はインテリです。〔中略〕われわれは彼をとがめることもできないでしょう。彼が手に入れられないものを、彼にそれが欠けているからといって、われわれが不平を鳴らすことはできない。しかし、この法廷についていうなら、寛容という消極的な徳は、より容易ではないが、より上位にある正義という徳に替わるべきなのです。とりわけ、この男に見出されるような心の空洞が、社会をものみこみかねない一つの深淵となるようなときには。〔中略〕私はこの男に対し死刑を要求します。そして死刑を要求してもさっぱりした気持です」(窪田啓作訳)



  ここにあるのは「内」が「外」に対して抱く違和感や嫌悪感だけでなく、その底に渦巻いているとめどない恐怖感もありあり伝わってくる。まさに、死刑判決を受けたムルソーが、ギロチンの処刑の日に大勢の見物人が集まって自分に憎悪の叫び声を挙げるのを願ったのと対をなすものだ。ことほどさように、もし「外」を不条理と見なすなら、合わせ鏡のごとく社会の規範の「内」もまた不条理でしかないことを、カミュはあからさまに描きだしたのではなかったか?



 それだけではない。作品が世に現れて80年あまりが経過した現在、極東の島国にあっても、老いた肉親を施設に託すのはごく当たり前の対応であり、その死去に際して葬儀を行わず墓も建てずといったことも珍しくなく、一方で、世間ではひっきりなしに理解不能の犯罪が起きるだけに、「太陽のせい」の動機すらないような殺人事件にさえだれも驚かなくなった。かくして、もはや社会の規範の「内」と「外」の境界がすっかり溶けてしまい、不条理が条理と化したかのような状況に至ったことまでも、この恐るべき小説は照らしだしてみせるのだ。




一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍