シェーンベルク作曲『映画の一場面への伴奏音楽』

現代音楽の開拓者も
真面目さが度を越すと


642時限目◎音楽



堀間ロクなな


  つねに揺らぐことのない真面目さとは、もちろん美徳だけれど、ときにそれが度を越すとユーモラスに感じられる場合がある。わたしにとって現代音楽の偉大な開拓者、アルノルト・シェーンベルクが作曲した『映画の一場面への伴奏音楽』(1930年)もそんな例のひとつだ。



  そもそも、シェーンベルクは顔つきからして真面目さを絵に描いたような人物だ。晩年の肖像写真では、目をギョロリと剥いて唇を固く結び、禿げ頭のこめかみには青筋が立っているという、ついぞ人生で笑ったことがないような厳めしさを漂わせている。1874年にウィーンのユダヤ人の靴屋に生まれ育ったかれは、地元の私立銀行につとめながらアマチュア・オーケストラでチェロを弾き、やがて作曲家として立つことを決意すると、後期ロマン主義の流れを汲む『浄夜』(1899年)や『ペレアスとメリザンド』(1903年)で頭角を現し、無調音楽に接近した『期待』(1909年)や『月に憑かれたピエロ』(1912)で名声を確立する。



 さらに、新たな音楽を探求するシェーンベルクの真面目さは留まるところを知らず、クラシック音楽の基礎を根底から引っ繰り返してしまう「十二音技法」の発明に至る。そして、この難解きわまりないメソッドによって『ピアノ組曲』(1923年)や『モーゼとアロン』(1932年、未完)などとともに果敢に取り組んだのが、冒頭に挙げた『映画の一場面への伴奏音楽』なのだ。



 このころ、フランスのリュミエール兄弟が創始した映画が新興メディアとして成長を遂げ、サイレントからトーキーへと移り変わる時期にあたって、その伴奏音楽に数多くの作曲家たちが活動の場を見出すことになった。シェーンベルクが『映画の一場面への伴奏音楽』を手がけたのもこうした趨勢に棹を差したものだったろうが、しかし、当然ながら伴奏音楽とはまず映画の企画が先にあって作曲家へ注文されるもので、映画の企画も注文もないのに伴奏音楽をつくりあげたのは、古今東西、ひとりかれだけであったに違いない。あくまで真面目さから発しているとはいえ、ここまでくるとユーモラスな成り行きに口元がほころんでしまうのはわたしだけではないだろう。



 それにしても、シェーンベルクはどのような映画を念頭に置いて作曲したのか。約8分半の長さで「威嚇する危険」「恐怖」「破局」の三つのパートからなり、くだんの「十二音技法」を駆使した複雑怪奇な落ち着きのない音楽は、カフカの小説のような実存的不安を描いた芸術映画にマッチしそうだが、ことによると本人の頭にはまったく別のタイプの映画のイメージがあったのかもしれない。というもの、後年にまとめられたシェーンベルクの論文集(1950年)のなかの『音楽の様式と思想』で、ロマン主義の音楽がもはや時代遅れになったとする見解への反論にあたって、つぎのような一節があるからだ。



 「どのような生活形態がロマン主義音楽を不適当とするのだろう。現代にはもうロマンティシズムは存在しないのだろうか。〔中略〕たとえ自己のかち得た栄冠が翌日の新聞の第一面と共に色褪せようとも、自分の命と引き換えの冒険をしよう、という青年はいないのか。もし機会があればロケットで月に行ってみたい、というような青年はいないのか。子供だけでなく大人も、あらゆる年齢の者がターザンやスーパーマンや超人的探偵に対して賛美の声をあげるのはロマンティシズムを愛する結果ではないだろうか」(上川昭訳)



 どうやら、シェーンベルクは「ターザン」や「スーパーマン」や「超人的探偵」を愛好していたらしい! すると、あの音楽も血沸き肉躍る大冒険活劇の伴奏として構想されたのではないか。そんなふうに思い当たると、どうしようもなく笑いが込み上げてくるのだ。



 ついでに、もうひとつエピソードを添えておこう。『映画の一場面への伴奏音楽』を書き上げて間もない1934年、シェーンベルクはナチス・ドイツのユダヤ人迫害を逃れてアメリカのロサンゼルスへ移住し、まさに映画産業の本拠地に身を置くことになったわけだが、どうやら伴奏音楽の注文はなかったようだ。代わりに当地の学生オーケストラのためにつくった楽曲などを集めた『ハリウッドのシェーンベルク』というCDが存在するのを知って入手したところ、そのジャケット写真では、あの厳めしい顔つきの作曲家が厳めしい顔つきのままで、半袖シャツをまとい、シェイクハンドでラケットを握って、真面目に卓球台に立ち向かっているではないか。わたしはもはや笑うのも忘れて、しばしボーゼンとしたものである。 



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍