『夢中問答集』
そこには為政者と宗教家の
鍔迫りあいのドラマが
644時限目◎本
堀間ロクなな
日本において世俗的な権力に立つ為政者と、倫理的な権威に立つ宗教家とは、いかなる関係にあるのだろうか? その最も鮮烈な一例を『夢中問答集』に見ることができる。
「あまりに善根に心を傾けたる故に、政道の害になりて、世も治まりやらぬよしを申す人あり。その謂(いは)れありや」
仏法の善根に拠りすぎたせいで政治がうまく運ばなくなった為政者を、どう考えるべきか。この問いを発したのは足利直義だ。室町幕府初代将軍・足利尊氏の弟で、当時、兄に代わって実質的に幕政全般を取り仕切る立場にあった。一方、相手の夢窓疎石は歴代天皇から国師号を授けられた臨済宗の禅僧で、直義も深く帰依して、京都嵯峨野に天龍寺を建立するなどした。そんな師弟のあいだに交わされた質疑応答の記録がくだんの『夢中問答集』であり、信心の基本や仏道の要諦をめぐって噛んで含めるような議論が重ねられていくのだが、こうしたなかにあって、上記の政治と仏法の対立が主題となったときだけは異様な様相を呈した。
夢窓国師は、おもむろに「聖教の中に癡福(ちふく)は三生の怨(あだ)と申すことあり」と説きはじめる。その主旨は、いまだ正しい仏法を知らず、心の奥底を明らかにすることのないままに、政治が善根を積もうとしてもかえって世間を混乱させるばかりで、まずは正しい仏法を修めるのが肝要ということのようだが、もとよりたんなる教理問答に留まるものではなかった。眼前の弟子は、これまで兄とともに兵乱の世におびただしい血を流してあたかも地獄のような光景を現出させてきた張本人なのだから。次第に師の口ぶりは変化する。
「元弘(鎌倉幕府の末期)以来の御罪業と、その中の御善根とをたくらべば、何(いづ)れをか多しとせむや。この間も御敵とて、亡ぼされたる人幾何(いくばく)ぞ。その跡に残り留りて、浪々したる妻子眷属の思ひは、いづくへかまかるべき。御敵のみにあらず。御方とて、合戦して死にたるも、皆御罪業となるべし。その子は死にて、父は残り、その父は死にて、子は存せるもあり。さやうの歎きある者、数を知らず。〔中略〕仁義の徳政はいまだ行なはれず。貴賤の愁歎はいよいよ重なる。世上の静謐せぬことは、偏(ひとへ)にこれこの故なり。何ぞ御心を善根に傾け給ふことの故ならむや。あはれげに、御意のごとく、諸人も一同に心を善根に傾け給はば、この世界やがて浄土にも成りぬべし。いはむや治まることなからむや」
まさに火を吹くごとき舌鋒というべきだろう。弟子に向かって、おのれの来し方を反省し、行く末のためにいっそう仏道修業に精進しなければならないことを諭したのだ。師のこうした切実な思いは、果たして直義の政治のあり方を変えたのか?
この問答が行われたと推定される時期の少しあとに、『太平記』はつぎのようなエピソードを伝えている。都大路で「ばさら大名」の土岐頼遠が光厳上皇の行列に無礼を働き、それを知った足利直義は激怒して「その罪の重さを論じるに、父母・妻子・兄弟姉妹の三族を死刑に処してもまだ足りない」と息巻いた。恐れおののいた頼遠は夢窓国師のもとに馳せ参じて助命を嘆願し、それを受けて国師も懸命に取りなそうとしたものの、直義は断固として「これを軽い処分で済ませたら、今後の悪い先例になるに違いない」と譲らず、六条河原で頼遠を斬首に処し、かろうじて同じ罰を下すはずだった弟の周済坊だけは減刑して流罪とした。すなわち、直義はこの期におよんで仏法の善根を封じて、世の秩序のほうを重んじたわけである。やがて、夢窓国師の住む天龍寺の壁にだれの手になるものか、こんな狂歌が張りだされた。
いしかりし ときは夢窓に 食らはれて すさいばかりぞ さらに貽(のこ)れる
おいしい料理の斎(とき=土岐)は夢窓が食べてしまって、添えものの酢菜(周済)ばかりが皿に残っている、といった意味で、夢窓国師の面目はまるつぶれになってしまった格好だ。かくして世俗的な権力に立つ為政者と、倫理的な権威に立つ宗教家の鍔迫りあいのドラマは持ち越され、両者の決着のつかないパワーポリティクスに対して庶民は皮肉なまなざしを向け続けたのだろう。
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