ジェームズ・キャメロン監督『タイタニック』
ディカプリオが
そのとき口にしたセリフは
684時限目◎本
堀間ロクなな
先のアメリカ大統領選においてドナルド・トランプ陣営が集会で『マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン』を無断使用して、歌手のセリーヌ・ディオンがただちに抗議を表明したと伝えられた。もとより、これはジェームズ・キャメロン監督の『タイタニック』(1997年)の主題歌であり、ときならぬ報道に接したわたしは懐かしさのあまりビデオを借りて見返すことにした。というのも、この映画には特別な思い出があったからだ。
1912年4月14日深夜に北大西洋を処女航海中だった豪華客船タイタニック号が氷山に接触して沈没し、乗員乗客約2200人のうち1500人以上が犠牲になった未曾有の海難事故をスクリーン上に忠実に再現して話題を呼んだ大作のラヴストーリーと、わたしは映画館で出会ったのではない。当時の妻とアメリカへ観光旅行に出かけた際、全日空機の座席モニターがたまたま流していたのを体験したのだ。
小さな画面であれすっかり集中して見入って、クライマックスのタイタニック号が直立して沈むシーンには息を呑み、波間を漂いながら貧乏な画学生ジャック(レオナルド・ディカプリオ)が名家の令嬢ローズ(ケイト・ウィンスレット)を力づけるやりとりでは胸打たれたものの、われに返ってみると、そのとき自分を乗せたボーイング機はアラスカ沖を飛行中で、もし万一の事態で不時着水した場合には映画のなかのかれらと同じ極寒の海が待ち受けていることに思い当たって、全身がわなわなと震えだし……。
そんな遠い記憶をよみがえらせつつ、ビデオをプレイヤーにかけたわたしは、ふと首をかしげた。あのころ世界じゅうの女性たちの熱い涙を誘って、映画史上初めて興行収入10億ドルを突破し、アカデミー賞11部門に輝くという快挙を成し遂げたこの作品について、昨今まるで話題にのぼらない印象があるのはどうしたわけだろう? その疑問とともに今回は自分の部屋で落ち着いて鑑賞するうち、公開から四半世紀が経過したあいだにどうやらドラマの核心部分がすっかり色褪せてしまったらしいことに気づいた。
「女子どもが先だ!」
タイタニック号の沈没が避けられない段階に至って乗客の避難作業がはじまると、大混乱のまっただなかで船長以下のオフィサーたちは声を大にしてそう叫び、数のかぎられた救命ボートに女性や小児から誘導した。当時のよく知られたエピソードではあるけれど、しかし、今日のわれわれがこうしたシチュエーションを映画で目の当たりにしたときにはかなり受け止め方が分かれるのではないか。果たして、「女子ども」とひとくくりにされて率先して救命ボートに乗り込む女性はどれだけいるだろう? あるいはまた、トランスジェンダーの人々はこの呼びかけに対してどのように応じたらいいのだろう? そう、ここで前提とされている男・女の安定した概念がとうに有効性を失って成り立たないのだ。
では、そこで「女子ども」として女性が優先的に保護されるべき理由はどこにあったのか。沈みゆくタイタニック号から放りだされたあと、ジャックは極寒の海で板材にローズだけを引き上げて救助を待ちながら、みずからは死の運命を受け入れて懸命な口調でこんなふうに励ます。
「愛しているよ。大丈夫、きみは必ず助かる。無事助かってたくさんの子どもを生む。かれらを育て、年を取って温かいベッドで死ね。今夜こんなところで死ぬんじゃない。いいね、絶対に生きのびると約束してくれ!」
当節、男性がこんなセリフを吐こうものなら、よしんば生死の瀬戸際にあったとしても、相手の女性からセクハラだとしてブーイングを浴びるに違いない。ひっきょう、ここに描きだされたのは21世紀の現在からすればすっかり過去のものと化した価値観であって、もはや世界じゅうの女性たちに滂沱の涙を流させることはなく、ふたたびこうした無邪気な映画がつくられる可能性はゼロに近いのだろう。その意味で、『タイタニック』は、かつて人類が男・女の安定した概念のもとで生きていた時代の掉尾を飾る貴重な歴史的記念碑と見なすべきなのかもしれない。
ちなみに、いまにして思い起こせば、アメリカ行きの飛行機に乗っていたわたしはジャックとローズの対話に全身を震わせながら、隣の座席で大口を開けて居眠りしている妻のほうを見やって、イザというときにわが身を捨てて救うことができるかどうか絶対の確信を持てずにいた。おそらくは、そうした心がけがのちに妻から離婚を切りだされる結果につながっていったのだろう……。
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