藤沢周平 著『市塵』
新井白石とわたしには
思いもよらない共通点が
685時限目◎本
堀間ロクなな
もうずいぶん前のこと、サラリーマン生活のなかで通勤列車では藤沢周平の時代小説を読むのを習慣としていた時期があった。そのあいだだけは毎日の仕事をめぐる気ぜわしさから離れて、江戸時代のゆったりとした時間の流れに心身を浸している気分になったものだ。もっとも、いまだにひときわ鮮やかな記憶に刻まれているのは、あれだけ熱中した「海坂藩」モノよりも、むしろ『市塵』(1988年)の一場面のほうだ。
江戸中期の儒学者・新井白石の人生行路を辿ったこの長篇小説は、颯爽と刀が抜かれるようなエピソードもなく、数多い藤沢作品にあってひときわ地味な部類に属するのではないだろうか。そうしたなかで、当時48歳の白石が甲府藩の侍講として、藩主の徳川綱豊(のちの江戸幕府第6代将軍・家宣)のもとへ通って『資治通鑑』の進講を行っている日常のひとコマをわたしは忘れることができない。
瀉(しゃ)
現代の医学用語では過敏性腸症候群(IBS)と呼ばれる症状を、かれが負っていたことが記述されているのだ。こんなふうに――。
瀉は長い年月にわたって白石につきまとって来た痼疾である。その性質も知りつくし、近ごろはいささか飼い馴らすすべも心得たつもりでいるのだが、瀉は時どきいまのように予期せざる時と場所に姿を現わして白石の心づもりの裏をかくようである。そして白石はといえば、この種の不意打ちにはいつになっても馴れることが出来ず、そのつどいまさらのように狼狽することになる。
「佐吉、またナニだ」
白石はお供の佐吉に言った。今朝、なにか腹にわるい物を喰ったろうかと、とっさに思いめぐらしながら、指は無意識に遠くに見える店を指している。
「清水屋だ。はばかりを拝借したいと申せ」
下痢に身分の上下は関係ない。もとより人類にとっては飲食と等しい比重で排泄という行為も重大な意味を持つはずだが、しかし、歴史上の人物の伝記のたぐいでその排泄にまで言及した例はそうそう他に見当たらないだろう。たとえば、信長、秀吉、家康の排泄のあり方を比較したら、鳴かないホトトギスの取り扱い以上に各々の個性が浮かびあがってくると思うのだけれど……。
いや、そんな呑気な話ではない。実は、かくいうわたしもサラリーマン生活がはじまって軌道に乗りかけたころ、このIBSにはずいぶん悩まされたクチだ。ひどいときは、会社に向かう通勤列車から各駅下車してトイレを使ったり、あるときは、珍しく調子がいいと安心していたところ、あとひと駅というところでいきなり下腹部が音をあげて下着を汚したり……。そうした経験を持つわたしには、白石が胸中に秘めた寄る辺なさをよく理解できたし、また、人格修養を旨とする儒学者ですらこのありさまなのだからと自分を慰めるよすがにしたのだった。藤沢周平の筆は、白石が清水屋の便所で無事に用を足したあとに、つぎのように続ける。
「いや、ご主人。大きに助かった」
言いながら、白石は誘われるままに茶の間に入った。刺すようだった腹痛も、いそがしかった便意も嘘のように消えている。
「こちらの厠は……」
と、白石は清水屋のはばかりをほめた。
「いつも掃除が行きとどいていて気持がよい。召使いのしつけがよく出来ているせいでしょうな」
「いえ、厠の掃除はやつがれの女房がいたします」
と清水屋は言い、お気に入りましたらどうぞたびたびお使いくださいましと笑った。
このあたり、おしなべて窮屈な現代と違って、いかにものどかな江戸時代の風情に羨望を覚えたものだが、それは早計だったかもしれない。あるとき、わたしはたまたま仕事でIBSについて研究しているという医師と面会する機会があったので、この症状を改善するための方策を尋ねたところ、サラリーマンに多発するのはたいてい人間関係が原因だから職場を変わらないかぎり不可能との答えだった。実際、しばらくして会社の人事異動で新たな部署へ移ったとたん、毎朝の下半身の不調がぴたりと止まったではないか!
その点、堅固な主従関係に縛られていた白石にはおいそれと症状から逃れる術はなかったろう。わたしは心から憐憫の情を禁じえなかったのである。
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