三島由紀夫 著『不道徳教育講座』

リラックスした筆が
つい胸の内をさらして


696時限目◎本



堀間ロクなな


 集英社は1952年に若い女性読者向けに『週刊明星』を創刊して、その目玉企画のひとつが当代の人気作家、三島由紀夫による連載エッセイ『不道徳教育講座』だった。このとき27歳の三島にとっても目新しい媒体の仕事はひときわ興がのったようで、いつになくリラックスした筆をふるい、ときにはつい心の内をさらしてしまったらしいところも散見されて大変興味深い。



 その第1回は「知らない男とでも酒場へ行くべし」と題して、ある週末の夜、銀座の裏通りで出会った3人の少女を「ロッカビリー喫茶」に誘ったときのエピソードが綴られている。もちろん、今日ではあまり褒められた行為ではないけれど、そこはひとまず大目に見るとしよう。



 三人組は跳んだりはねたりしながらついて来て、いかにも無邪気なので、私も満更でない気持でした。私は見かけはどうでも無邪気な人が一番好きです。お互ひの自己紹介。A子はちよつと昔の女優の志賀暁子に似てゐて、目張りを目の下に入れ、豊かな顔立ちだが、年に似合はぬ倦怠の漂つた表情をときどきする。C子は、年増らしい面長な顔立ち。B子が一番可愛く、私の初恋の人に似てゐて、ぼうつとした感じで、事実一等何にも知らないのが、一生けんめい二人の悪友のマネをしてゐるといふ様子に見える。三人とも高校二年生といふことでした。



 文中の「私の初恋の人」とは、『仮面の告白』(1949年)に登場する「草野園子」のモデルとなった、学習院の同級生・三谷信の妹の邦子を指しているのだろう。かれの文学世界において重要な意味を持つキイパーソンを初対面の少女に重ねて報告してみせるなど、ふだん何ごとにつけ周到な三島らしくないようにわたしには思える。このあと、ジャズ・バンドの演奏をバックに、他愛ないおしゃべりをしながら、彼女たちが三島の毛深い腕を面白がって引っ張ったりするうち、ふいにかれの心情が一変する。



 だが私の見るところ、少なくともA子とC子は、はじめの新鮮な印象を裏切るやうなものを持つてゐるやうな気がするのでした。さう思ふ私は妙にシュンとしてしまつた。別に彼女たちに対して何の悪意も感じないが、何だか、十七や十八の年ごろで、目張りを入れた目に倦怠をにじませながら、溌剌と胸を張つて歩く態度と、どこかだるさうな態度とのチグハグなカクテルを示して、タバコをふかしてゐるその横顔を見るうちに、何だかとてもフビンな、可哀さうな気がしてしまつた。大人といふものは、ただむやみに若さにあこがれてゐるわけではなく、大人の目から見ると、若さの哀れさもよくわかるのです。



 このナイーヴさは一体、どうしたわけだろう? 戦後文学の旗手として『愛の渇き』(1950年)や『禁色 第一部』(1951年)などでアプレゲール(戦後派)の愛欲模様を赤裸々に描いていた三島とは、まるで別の顔つきのようではないか。そこで、わたしには思い出されることがある。瀬戸内寂聴が晩年に回想録『奇縁まんだら』(2008年)のなかで、作家デビューをして間もない時分、初めて三島の自宅へ出かけて面会したときの印象をこんなふうに書き残しているのだ。



 「玄関脇の小さな部屋で待つほどもなく現われた三島さんは紺絣りの着物を裾短かに着て、まるで書生っぽく、まぶしいほどの流行作家とは見えなかった。どうかした拍子に覗く胸元の胸毛の濃さと、立居の折に見える貧相な葱のような脚に似合わない堂々とした体毛に圧倒された。顔色は蒼白く、体つきもきゃしゃで、濃い体毛を見なければ、女性的といえる体つきであった」



 瀬戸内が訪問したのは、ちょうど三島が『不道徳教育講座』のシリーズを書きはじたころと思われる。その観察眼がいみじくも見て取ったように、当時のかれは流行作家のイメージからほど遠く、きゃしゃで女性的な雰囲気をまとい、それはおそらく外見にとどまらず内面にまでおよんでいたのではないか。周知のとおり、後年、三島はボディビルによって「もののふ」への肉体改造に取りかかり、最後には陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地での割腹自殺へと突っ走っていったために、われわれはどうしてもその「思想」と「行動」に目を奪われがちだけれど、実のところ、かれの胸の内にはこうした女性的でナイーヴな「感性」が宿っていたことも知るべきだろう。



 のちに、この連載エッセイの「大いにウソをつくべし」の回では、つぎのような言葉がしたためられている。



 すべてウソは独創性である。他人からぬきん出て、独自の自分をつくり出す技術である。


   

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とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍