吉行淳之介 著『童謡』
ああ、ああ、
この身はわたしじゃない
734時限目◎本
堀間ロクなな
このあいだ愛犬と散歩していたとき、住宅街の路上に白いチョークで書かれたその言葉を目に留めて、ひどく懐かしい思いが込みあげた。いや、懐かしいというのとはちょっと違う。もう半世紀以上のあいだ、耳にしたことも口にしたこともない言葉だったので、むしろぎょっとしたというのが正直なところだった。
「ちんげ」
おわかりになるだろうか? 男性の陰毛のことである。いまやはるか遠い記憶となってしまったが、かつてそうした年代のころ、その個所の産毛がどうやって陰毛へと変化していくのか、目を凝らして見守った記憶があるのはわたしだけではないはずだ。おそらく、この住宅街にもそんな男の子が暮らしているのに違いない。
そこで、吉行淳之介の『童謡』(1961年)が脳裏によみがえってきた。同じ世代の方には多いだろうが、わたしもこの短篇小説と中学校の国語の教科書で出会った。そう、まさに「ちんげ」が生えてくるかどうかといった時分に――。
主人公の少年(名前はない)は、ときならぬ高熱を発して「蒲団の国」の住人となるのだが、わたしもかつて虚弱な体質で小児喘息や副鼻腔炎に苛まれた体験があったから、少年の身体からどんどん肉が落ちて、まるで自分が平べったい昆虫のようになってしまったような感覚はよくわかった。「前は、高く跳べたのに。とても、高く跳べた」。病院にやってきた友人がそんな慰めの言葉をかけてから、昔おばあさんがあったとさ、という歌をうたって聞かせる。冬の寒い日に市場へタマゴを売りに出かけ、途中の道端で眠り込んだところ、通りかかったいたずら者の物売りがおばあさんの服をちょん切って膝小僧のところまで短くしてしまった。すると――。
やがておばあさんは目をさまし、
ぶるぶるからだをふるわせて、
さもふしぎそうにこう言った。
まあ、まあ、この身はわたしじゃない。
もしまあ、この身がわたしなら、
家の小犬が知っている、
わたしと知れば尾を振って、
わたしでなかれば吠えるだろ。
そこでひとまず家へ行く、
もうとっぷりと日も暮れた、
小犬はわんわん吠え立てる。
ああ、ああ、この身はわたしじゃない。
なんと、くだらない童謡。間延びした歌を聴きながら、少年は親しかった友人がどうやら自分を憎んでいたらしいことを感じ取る。また、別の日には、ほのかな恋心を抱いていた女の子が見舞いにやってきて、その顔に怯えの表情が走るのを目の当たりにして深く傷つく。しかし、やがて回復のときが訪れた。いったんは骨と皮ばかりになった身体がむくむくと太りはじめたのだ。ほんの10日目にかつての体重となり、それでも止まらずに太りつづけて20日目には倍の体重となって身動きにも難儀したあとで、次第に余計な肉が落ちていってようやくもとどおりの体格に戻った。
わたしも思い起こす。ひ弱な身体が呪縛から解き放たれたかのように大きくなりはじめたとき、骨と筋肉のバランスが乱れたせいなのか、あちらこちらに異変が生じた。あるときは両足の踵が痛くて爪先立ちで歩いたり(そのころ母親が熱心に見ていた島かおり主演のテレビドラマの影響で、骨肉腫ではないかと疑った)、あるときは右側の乳首の周囲に丸いシコリが感じられたり(乳がんではないかと疑った)、子どもから大人の身体へと移りゆくのはずいぶんとちぐはぐなプロセスだった。
ああ、ああ、この身はわたしじゃない。
そのセリフは確かに自分のものでもあった。そうしたとき、ふいに発見したのだ。股間に、まだ頼りないながらも黒々と「ちんげ」が生えだしているのを――。吉行の小説は、「もう、高く跳ぶことはできないだろう」という少年のひとりごとで結ばれている。国語の教科書を見下ろしながら、わたしも同じ感懐にとらわれた。そして、それをきっかけとして「ちんげ」への関心を失ったのである。
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