稲垣 浩 監督『無法松の一生』
検閲で削除された
シーンに描かれていたのは
733時限目◎映画
堀間ロクなな
愚直という徳目――。伊丹万作脚本、稲垣浩監督による日本映画史上の名作『無法松の一生』(1943年)が主題とするところは、さしずめこうなるのではないか。
舞台は、明治30年代から大正にかけての北九州・小倉。人力車夫の富島松五郎(阪東妻三郎)は曲がったことが大嫌いで喧嘩っ早く警察沙汰もしょっちゅうだったが、街の名物男として庶民の人気を博していた。そんなかれはひょんなきっかけで陸軍の吉岡大尉と昵懇になったものの、思いがけず大尉が病気で急逝すると、あとに残されたよし子夫人(園井恵子)から懇願されて、まだ幼くひ弱なひとり息子・敏雄の面倒を見ることに。
かくして、荒くれの松五郎が母子のために心を尽くすユーモラスなドラマが春夏秋冬の移ろいのなかで紡がれていく。そのクライマックスは、いまや成長して第五高等学校(現・熊本大学)の学生となった敏雄が夏休みに恩師をともなって帰省し、小倉祇園祭りの見物に出かけた際、すでに伝統が絶えたとされていた祇園太鼓を松五郎が飛び入りで山車にのぼって披露してみせるところだろう。
華々しい盛り上がりのあと、映画は一転して、あたかもチェーホフ劇のような人間心理の深奥に迫る展開を見せるはずだった。はずだった、というのは、この作品の核心たるシーンが当時の内務省の検閲によって削除されてしまったからである。そこで、当該部分のシナリオで以下に再現してみたい。祇園祭からしばらくして、ひとり暮らしの日々を過ごすよし子夫人のもとへ、久しぶりに松五郎がやってきたところだ。
未亡人
「まあ松五郎さん、お珍しいこと、さあこちらへお上がりなさい」
松、悄然佇立。
未亡人の声
『さあどうぞ、そこは冷えますから、こちらの火のところへおいでなさい』
未亡人、座布団など用意。
松、まず仏壇に一拝し終り。向きなおる。
未亡人、火鉢の火をかき立てながら
「さあもっと火のそばへお寄りなさい」
松、未亡人の顔を見る。
未亡人、松の顔を見る。
松、あわてて眼を伏せる拍子に大きな涙が一つはふり落ちる。
未亡人
「松五郎さん、あなたどうかせられたのですか。何かあったんですか」
松、うつむいたきり無言。
「松五郎さん、おっしゃってくださいませんか、もし私たちにできることでしたら――」
松五郎
「奥さん――。おれは帰ります。――もうお目にかかることはあるまい」
「どうしてですか、言うてください、どうしてそんなことを――」
「奥さん――」
松、じっと焼きつくように見る。 未亡人、急に何かに撃たれたように、はっと息を殺す。
間。
「おれの心はきたない――」
二人。
「奥さんにすまん!」
松五郎、急に未亡人の前に平伏する。しかし、すぐに立ち上がる。
呆然と見送る未亡人をあとに、風のように去る。
凍りついたように端座して、一点を凝視していた未亡人、急に激しく歔欷し始める――。
少々長くなったけれど、伊丹万作がことさら念入りに書き込んでいるのを省略せずに引用した。念のため付言すれば、松五郎とよし子夫人が出会ってからすでに10年あまりが経過して、両者とも当時では初老の年代に差しかかっていてもはや生臭い雰囲気はない。にもかかわらず、内務省は太平洋戦争まっただなかの時期にあって、このシーンが軍人の未亡人の貞操を汚すものと判断したようで、いざとなれば国家は国民の内面生活にまで立ち入ってくることを示した証左だろう。いや、国家ばかりではない。敗戦後の占領期においては、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)もまた検閲を行って、中国大陸での戦勝を祝賀する提灯行列のシーンなどが削除されたのだ。
こうした経緯から、稲垣浩監督はサンフランシスコ講和条約で日本が独立を回復すると、捲土重来を期して再度の『無法松の一生』(1958年)に取り組んだ。松五郎とよし子夫人の役には人気絶頂の三船敏郎と高峰秀子をあて、さらにカラーのワイドスクリーンを採用して高い完成度に仕立てあげた結果、悲願かなってヴェネチア国際映画祭のグランプリを受賞したのだった。
もちろん、そこでは上記の削除されたシーンもしっかりと描かれている。しかし、それを観ていささか拍子抜けするのはわたしだけではないはずだ。なぜなら、頭のなかで思い描いていた前作の阪東妻三郎と園井恵子によるシーンには遠くおよばなかったからだ。それはたんに想像と現実の落差だけが原因ではあるまい。おそらく、松五郎とよし子夫人の不器用な交流が戦時国家体制の厳しい緊張関係のもとでは光り輝いたのが、平和で民主主義と自由恋愛を謳歌する世相のもとではすっかり色褪せたのだと思う。
それだけではない。歴史上初の敗戦を経験したあと、日本人は生きていくうえにあれやこれやの言い訳と知恵が必要となって、愚直という徳目を永久に失ってしまったのではないだろうか?
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