H・G・ウエルズ著『透明人間』

日本社会に蔓延する
盗撮犯の心理とは


732時限目◎本



堀間ロクなな


 わたしにとって理解困難な事態のひとつに、近年の盗撮犯の蔓延がある。警察庁の発表によると、2024年の検挙数は過去最多の8323件にのぼったとか。たんに変質者の犯罪と切り捨てるのは簡単だけれど、ことここまでに至った以上はもっと正面から考察する必要がありそうだ。



 どうしてもわからないのは、ことが露見したら厳しい制裁によって人生を棒に振りかねないにもかかわらず、盗撮に手を染める連中が増大する一方なこと、また、こういっては語弊があるかもしれないが、盗撮の対象とされる女性のスカートの内側や女児の着替えの様子などにとてもポルノグラフィの価値があるとは思えないことだ。だとするなら、かれらはむしろ盗撮という行為自体に淫しているのではないか? すなわち、今日のリアルとヴァーチャルが溶けあった世界において、みずからの身体を消し去り、いわば透明人間と化すことに――。



 そこで、H・G・ウエルズ著『透明人間』(1897年)を読み返してみた。果たして、この古典的名作は目に見えない人間を素材としてわれわれのどのような心理を暴きだしていたのか、あらためて興味が湧いたからだ。



 ある冬の日、イギリスの田舎町に、分厚いコートを着込み、帽子の下の顔を包帯で巻き、青い色眼鏡をかけた奇怪な風体の男が現れる……という、よく知られた導入部については説明不要だろう。この科学者グリフィンは、色と光を四次元的に統御する実験によって全身がガラスのようになった透明人間なのだ! ウエルズはこうしたプロットを、W・S・ギルバートの滑稽詩『バブ・バラッド』(1886年)の口やかましい妻から逃れるために透明になった夫のエピソードや、R・L・スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』のマッド・サイエンティスト像をヒントに組み立てたとされる。



 わたしにとって興味深いのは、グリフィンがなんのために透明人間になったのか、はっきりしないことだ。むしろ逆に、かれは透明人間になって初めてその意味に気づいたらしい。旧友のケンプ博士に向かって、こんなふうに打ち明けるのだ。橋本槇矩訳。



 「階段を降りるとき私ははじめて足が見えないと意外に歩きにくいことを知った。二度もつまずいたし、閂(かんぬき)をはずすにも手間どった。しかしどうにか下を見ないで歩けるようになった。そのときの私の気分は何といったら良いか。まあ半ば恍惚とした状態だった。盲人国に迷いこんだ目あきのような気分だったよ。〔中略〕グレイト・ポートランド街に出たとたん、背後(うしろ)からぶつかってきた奴がいて大きな音がした。振り向くとソーダ水の瓶を籠に入れて運んでいる男で、びっくりして籠の中に何かいると思ったのかじっとのぞきこんでいる。背中が大変痛かったが、それよりも男の狼狽ぶりがおかしくて大笑いしてしまった。『おまえの籠に悪魔がいるぞ!』と叫ぶや、私はそれをひったくって中身もろとも空中高く持ちあげた」



 どうやら、透明人間とは悪魔の代名詞でもあったようだ。しかし、ひそやかな快感に酔い痴れたのも束の間、透明人間でいるためにはつねに素っ裸のため寒さに凍え、世間と交われないせいで食料を手に入れるのにも暴力沙汰を引き起こす羽目となり、いったんはこの境遇の馬鹿馬鹿しさに後悔の念が兆す。ところが、そうした葛藤が反転するなり、たちまち自意識の異常な肥大化をきたして、グリフィンは、透明人間がやらなければならないのは正義の殺戮であり、無知な人々を震えあがらせて支配する恐怖政治の実現であるとして、高らかに宣言するのだ。



 「今日は新時代の幕開けの日だ。透明人間の時代!」



 もとより、これは「SF小説の神様」ウエルズの想像力が生みだしたディストピアの光景であり、社会主義と優生学の擁護者ならではの辛辣なカリカチュアでもあったろう。しかし、とわたしは疑いたくなる。実のところ、21世紀の日本社会にとめどなく増殖する盗撮犯たちの内面にも、こうした冷ややかなアナーキズムが巣食っているのではないか、と――。であるなら、この卑しい犯罪を抑止するためには、作中で警察隊が透明人間を狩りだそうと道路にガラスの破片を敷きつめたように、あらかじめその行く手を塞ぎ止める対策が必要なのかもしれない。



 ただし、これだけはつけ加えておこう。人体には決して透明にできない部位がある。両の目だ。眼球で光を屈折させて視覚を得ているのだから、そこがただ透き通ってしまったら視覚を失うわけで、したがって正真正銘の透明人間は盗撮ができないのである。


  

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍