ストラヴィンスキー作曲『火の鳥』
高市内閣総理大臣は
火の鳥なのか?
736時限目◎バレエ
堀間ロクなな
火の鳥とはある日、突如として出現するものらしい。そして、ひとたび出現すると、それ以前と以後で世界はまったく別の様相を呈することになるようだ。バレエ『火の鳥』の公演映像を前にして、そんな思いにとらわれた。
この有名な演目は、20世紀初頭のヨーロッパを席巻したバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の主宰者セルゲイ・ディアギレフのプロデュースによって、当時はまだ新進作曲家の立場だったイーゴリ・ストラヴィンスキーが音楽(全22曲)をつくり、ミハイル・フォーキンが台本・振付を担当して、1910年6月にパリ・オペラ座で初演された。ストーリーは、「ロシアのグリム兄弟」こと民俗学者アレクサンドル・アファナーシェフが編纂した『ロシア民話集』(1855~63年)のなかの『イワン王子と火の鳥と灰色狼の話』と『不死身のコシチュイ』にもとづく。
そして、2008年6月にサンクト・ペテルグルクのマリインスキー劇場で、カリスマ指揮者のワレリー・ゲルギエフのイニシアティヴのもと、初演時の舞台を復元する公演が行われた。わたしが今度視聴したのは、その際のライヴ映像だ。
幕が開くと、ステージの中央には黄金のリンゴの木がそびえ、背景には鉄の門扉をかまえた魔法の庭園が広がっている。そこへ、どこからとも火の鳥(エカテリーナ・コンダウーロワ)がやってきてリンゴの実をついばもうとすると、その全身から立ちのぼる炎があたり一面をまばゆく光り輝かせるのだ。火の鳥をつかまえようと近づいてきたイワン王子(イリヤ・クズネツォフ)までも真紅に包み込みながら……。こうして鮮やかに染めあげられた魔法の庭園と王子とは、つまり国家と国民のメタファーではないのか? そんなふうに思い当たったのは、高市早苗内閣総理大臣の所信表明演説(2025年10月)のシーンと重なったからだ。
「世界が直面する課題に向き合い、世界の真ん中で咲き誇る日本外交を取り戻す。絶対にあきらめない決意をもって、国家国民のため、果敢に働いてまいります」と、国会の壇上で高らかに宣言したとき、その小柄な身体から炎が迸って日本という国家を赤々と照らしだし、テレビの前のわたしまでもひとりの国民としていくばくかの光を受け取ったような感覚に打たれたものだ。だとするなら、このバレエは同じことを伝えようとしているのかもしれない。すなわち、高市総理は火の鳥である、と――。
ステージ上では、幼い子どもでも容易に理解できるような展開が進んでいく。やがてイワン王子は、魔法の庭園で悪魔(ウラジーミル・ポノマレフ)の手に囚われの身となった美しい姫君(マリアンナ・パヴロワ)と出会うと、絶体絶命のピンチを乗り越え、無事に救いだして結ばれるという他愛ないものだが、その予定調和のドラマで重要な役割を果たすのが火の鳥の尾羽根だ。上記の『イワン王子と火の鳥と灰色狼の話』では、こんなふうに説明されている。
「その羽根はじつに不思議な明るい羽根で、暗い部屋にもってはいると、何十本のろうそくをともしたようにきらきら輝くのだった」(中村喜和訳)
どうやら真っ暗な国家であっても真昼のように変えてしまうパワーがあるらしい。これから高市総理は「世界の真ん中で咲き誇る」ために、きらきら輝く尾羽根にものをいわせることだろう。それが果たして具体的に何を意味するのか、今後固唾を呑んで見守りたい。
ただし、このことはあらかじめ認識しておこう。バレエ・リュスがパリ・オペラ座で『火の鳥』を初演したころ、ヨーロッパでは三国同盟(ドイツ、オーストリア、イタリア)と三国協商(イギリス、フランス、ロシア)の両陣営の対立が激化して第一次世界大戦へと向かっていった。また、それから1世紀近くを経てマリインスキー劇場が蘇演を行ったあと、ロシアのウクライナ侵攻が起こり、立役者だった指揮者ゲルギエフはプーチン大統領の支持を表明したせいでヨーロッパの楽壇から追放されることになった。
火の鳥は予定調和どころか、世界に不和と混沌をもたらす存在かもしれないのである。
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