与謝野晶子 著『君死にたまふことなかれ』
戦争という現実との
向きあい方とは
739時限目◎本
堀間ロクなな
今年(2025年)は戦後80年ということでテレビが繰り広げた戦争反対キャンペーンのたぐいを眺めて、わたしは呆れるよりも物悲しい気分にとらわれた。いざとなったら長いものに巻かれるのが目に見えているだけに……。いや、テレビだけの話ではない、われわれ自身、この80年の平和のあいだに戦争という現実との向きあい方がすっかりわからなくなってしまったのではないか。
ああをとうとよ、君を泣く。
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
いうまでもなく、明治の歌人・与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』だ。日露戦争に出征した実弟の身の上を案じて雑誌『明星』1904年9月号に発表した、全5連からなる反戦詩の第1連にあたる。
およそ表現・言論の自由がなく、また、日本じゅうが戦争熱で沸き立っているさなかに、なぜ晶子はこうした言葉を唱えることができたのだろう? そのころの歌壇の重鎮・大町桂月が雑誌『太陽』10月号に批判を寄せて、社会主義の一味のように見なし、「草莽の一女子、義勇公に奉ずべしとのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議す」と弁じたてたのに対しても、彼女は黙っていなかった。すぐさま『明星』11月号に『ひらきぶみ』と題して、夫の与謝野鉄幹宛ての手紙という形式を借りて反駁し、『君死にたまふことなかれ』をしたためた根拠をこう述べている。
あれは歌に候。この国に生れ候私は、私らは、この国を愛(め)で候こと誰にか劣り候べき。物堅き家の両親は私に何をか教へ候ひし。堺の街にて亡き父ほど天子様を思ひ、御上(おかみ)の御用に自分を忘れし商家のあるじはなかりしに候。〔中略〕まして九つより『栄華』や『源氏』手にのみ致し候少女は、大きく成りてもますます王朝の御代(みよ)なつかしく、下様(しもざま)の下司(げす)ばり候ことのみ綴り候今時(いまどき)の読物をあさましと思ひ候ほどなれば、『平民新聞』とやらの人たちの御議論などひと言ききて身ぶるひ致し候。さればとて少女と申す者誰も戦争(いくさ)ぎらひに候。
冷静きわまりない文章からも、この反戦詩が一時の感情の高ぶりによるものではないことが明らかだ。日本の国に生まれ、天皇陛下を尊崇する家庭にあって、古典文学に親しみながら育った女子であれば、社会主義などにかかわりなく、だれしも戦争を嫌うようになるとして、さらに畳みかける。
私が「君死にたまふこと勿(なか)れ」と歌ひ候こと、桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国などの文字や、畏(おそれ)おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや。私よくは存ぜぬことながら、私の好きな王朝の書きもの今に残りをり候なかには、かやうに人を死ねと申すことも、畏おほく勿体(もったい)なきことかまはずに書きちらしたる文章も見あたらぬやう心得候。いくさのこと多く書きたる源平時代の御本にも、さやうのことはあるまじく、いかがや。
すなわち、もともと日本には人々を死に追いやって当たり前とする精神風土は存在しなかったと主張するのだ。その議論の当否はひとまず措いて、むしろ肝心なのは、晶子がこうした歴史認識のうえにおのれ一個の身をもって戦争という現実に真正面から向きあおうとしたことだ。そんな途方もない潔さゆえに、あたかも純真な童女が国家権力に痛棒を食らわせるような言葉へとつながったのだろう。『君死にたまふことなかれ』の中核をなす第3連は、つぎのごとく詠われている。
君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獣の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこころの深ければ
もとよりいかで思されむ。
戦後80年が過ぎた今日、われわれは晶子から何を学べばいいのだろうか?
0コメント