高倉 健 主演『昭和残侠伝』
昭和の「男の美学」と
きれいさっぱり訣別するとき
740時限目◎映画
堀間ロクなな
大谷翔平という存在の歴史的な意味合いについては、これからあれこれと議論されていくことだろう。わたしはその論点のひとつに、日本における「男の美学」の革新が挙げられると考えている。
昭和を知る世代にとって「男の美学」を象徴するアイコンは、おそらく映画俳優・高倉健だ。そのプロトタイプを佐伯清監督『昭和残侠伝』(1965年)、すなわち『唐獅子牡丹』の主題歌とともに大ヒットしたシリーズの第一作に見て取れよう。そして、そこから逆照射することで、大谷翔平がもたらした新たな「男の美学」を浮き彫りにできるように思うのだ。こんな具合に――。
映画の舞台は、太平洋戦争の終結直後、1946年(昭和21年)の東京・浅草だ。この地で長らく露天商を仕切ってきた伝統やくざの神津組は、新興グレン隊の新誠会の威勢に押されて組長の命まで奪われてしまったところへ、かつて組の衆望を担った寺島清次(高倉健)が戦地から復員してきて跡目を継ぐことに。
ここで注目すべきポイントは、清次の出征先が太平洋の島か中国大陸か不明ながら、本人が元恋人の綾(三田佳子)に向かって「あっしは鉄砲玉とは相性が悪いらしくて無傷で帰ってきましたよ」と冗談めかして告げたとおり、海外の戦場にあっては特段の戦闘体験もなく「男の美学」と無縁であったらしいことだ。それが地元に帰還したとたん、庭場(にわば)と呼ぶ猫の額ほどの市場をめぐって組の支配権を守るための矢面に立つ。つまり、箱庭のような空間でこそ発揮される「男の美学」であって、このあたり、日本のプロ野球からアメリカ大陸の大リーグへとワールドワイドな活躍の場を求めていった大谷翔平とはおよそ真逆のベクトルといえるだろう。
さらに、もうひとつポイントがある。清次は新誠会の横暴に対して我慢に我慢を重ねたものの、ついに堪忍袋の緒が切れて、単身、日本刀をひっさげて果たしあいへと立ち向かうと、その前にひとりの人物が現れる。風間重吉(池部良)だ。悪い男と駆け落ちした妹の行方を追って上京した宇都宮のやくざで、神津組の食客となりながら探し当てた妹が結核で死ぬのを看取ったところだった。かれは清次に「ここであんたをひとりで行かしちゃ、一宿一飯の渡世の仁義も知らないやつだと世間の笑いものになります。男にしてやってください」と頭を下げる。かくして、男と男が静かな笑みを交わし、夜道に並んで歩を進めていく姿に、高倉健のうたう主題歌が重なるのだ。水城一狼・矢野亮作詞。
義理と人情を 秤にかけりゃ
義理が重たい 男の世界
幼なじみの 観音様にゃ
俺の心は お見通し
背中(せな)で吠える 唐獅子牡丹
あまりにもクサイ演出に佐伯監督は「アホらし」と乗り気でなく、チーフ助監督の降旗康男が代わりに撮ったと伝えられているが、それはともかく、まさにこのシーンこそが「男の美学」の極点であり、ふたりは新誠会の事務所に乗り込むと、背中の刺青をあらわに日本刀とピストルで血の雨を降らせたあげく、最後には抱きあうようにして倒れ込むのだ……。もとより、こんな同性愛的なイメージも、自分ひとりで投手と打者の二刀流を貫いてみせる大谷翔平からはほど遠いものに違いない。
このとき高倉健と池部良が演じた「男の美学」は、ただのフィクションだったのだろうか? わたしは必ずしもそう思わない。
たとえば、三島由紀夫が国際的なキャリアをかちえながら、1970年(昭和45年)11月25日、日本刀を携えて陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に向かい、その道すがら車のなかで「楯の会」の連中と高らかに『唐獅子牡丹』をうたったのち、箱庭のような東部方面総監室にあって若い同志の森田必勝とともに割腹自殺を図ったのは、まさしく『昭和残侠伝』をなぞるような成り行きだったろう。以来、半世紀が経過した今日に至るまで、われわれの時代感覚のどこかにこの出来事が居据わり、ずっと引きずってきたのは、そうした事情も作用していたのではないか。
しかし、大谷翔平の出現によって、いまや昭和の「男の美学」ときれいさっぱり訣別し、未来に向かっての「男の美学」が立ち現れようとしている。わたしの目にはそんなふうに見えるのである。
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