長谷川まりる 著『ぼくのシェフ』
「食べる」とは
どういうことか?
741時限目◎本
堀間ロクなな
「食べる」とはどういうことか? 人間にとって、いや、すべての動物にとって最も基本の行動でありながら、この問いに答えるのは案外難しそうだ。とりわけ現在の日本のように、飽食の時代といわれて子どもたちにも肥満や生活習慣病が広がる一方、9人に1人は日常の食事にも事欠く貧困状態に置かれ、また、拒食症・過食症など摂食障害の低年齢化も著しいという状況のもとで、「食べる」をめぐってはいっそう混迷の度合いが増しているように思われる。
長谷川まりる著『ぼくのシェフ』(くもん出版 2025年)はこうしたテーマに真正面から立ち向かっている。児童文学のスタイルをとっているが、もとより大人にとっても重大な問題提起であることはいうまでもない。
こんな内容だ。おもな交通機関が馬車というのどかな国にあって、町でいちばんのレストランのシェフを父親に持つ少年シャールは幼いころから料理の修業に励んできた。ある日、慈善団体が貧民街で行う炊き出しに参加して、かれは自信満々で自作のビースープを人々にもてなしていたところ、目の間に現れた男の子がいきなり鍋にミルクをぶちまけ、そのせいで味に深みが加わったことに衝撃を受けて、この少年アズレが天性の素質の持ち主なのを知る。以来、シャールは貧民街のアズレの部屋へ通っていっしょに料理をするようになったが、そんな行動を胡散臭く眺めてきたアズレの母親から追い出されてしまう。
ここには、社会的な経済格差のもとで富者の「食べる」と貧者の「食べる」はまったく別物だと示されている。たとえ善意によっても決して通じあうことはないのだ。
それから2年後、国じゅうに奇病が流行する。この病気にかかると、あらゆる食べ物から死のにおいがして口にできなくなるため「食死病」と呼ばれ、シャールの父親もあっけなく命を落としてしまった。そこで、計画よりもずっと早くレストランを継ぐことになったシャールは、従来のスタッフたちに協力を求めると同時に、あの天才少年を思い出して貧民街の部屋へ出向き、母親が家出したあとにひとりきりで暮らしていたアズレを迎え入れる。たちまち能力を発揮したアズレによって店の料理は評判をとり、かつてよりも繁盛するのだが、ふたりのあいだにはいつまでも心の通いあわない領域があった。しばらくして、アズレは受け取った給料をこれまで世話になった慈善団体にぜんぶ寄付していたことがわかり、そのうち、レストランの料理代が昔日の自分には手が届かないほど高額なのに悩んだり、しかもそれを平気で食べ残す客に対して怒りをぶつけたりするにおよんで、シャールはかれをクビにせざるをえなくなる。
もとより、「食死病」とは摂食障害のメタファーだ。どうやら摂食障害が蔓延する社会においては「食べる」が宙に浮いて、その本当の意味をだれもつかめなくなってしまうものらしい。
さらにまた2年が過ぎて、18歳のシャールもまた父親と同じ「食死病」にかかって死を待つばかりとなった。かれはレストランを閉じると、喧嘩別れしたアズレに謝罪しようと思い立って、その行方を追い、楓の森のなかの小さな一軒家でようやく懐かしい友人と再会を果たす。アズレはいまではキッチンに立つことも稀だったが、シャールが「食死病」なのを知ると、久しぶりに料理の腕をふるうことを決意するのだった……。
このあとに展開する、あっと驚くクライマックスについてはネタバレを控えるとしよう。ただし、ひとつのエピソードだけ、ぜひとも言及しておきたい。
「まずい」
ほとんど骨と皮だけになったシャールは、アゼルがつくったものをやっと口に運ぶなり思わずつぶやいて、ふたりは笑いあう。そうなのだ、料理がうまくなければならないという道理なんてどこにもない。うまくたっていい、まずくたっていい。そうした呪縛から解き放たれることで、シャールの前に初めて自由な「食べる」の世界が広がり、その瞬間に食べ物から感じ取っていた死のにおいが雲散霧消したのに違いない。
ここで、もう一度、冒頭の問いを繰り返す。「食べる」とはどういうことか? おそらくは、世間におびただしく氾濫するグルメ情報のたぐいなど蹴飛ばして、うまい、まずいといったドグマを超えたところに、われわれもありのままの「食べる」を見出すことができるはずだ。したたかな天才少年アゼルに託して、作者はそう訴えかけてくるのである。
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