谷崎潤一郎 著『高血圧症の思ひ出』
「死」は恐怖よりも
悲哀をもたらすのみで…
750時限目◎本
堀間ロクなな
人間、ある程度の年齢になると、おのれの病気ネタを熱心に語りたくなるのはどうしたわけだろう? かくいう自分自身、少なからずその気があるようだ。わたしの母親は32年前、57歳のときにクモ膜下出血で亡くなったが、その体質が遺伝したのだろう、わたしは学生時分から健康診断で高血圧症を指摘されてきた。かつては大して気に留めなかったものの、さすがに大厄の年を迎えたころには医師の処方にしたがってクスリを服用するようになり、同世代の連中と病気ネタで盛りあがる席では高血圧症の話題を持ちだすのがつねだった。
あの谷崎潤一郎もまた、『高血圧症の思ひ出』という文章を書き残している。1959年、73歳のときだ。これによると、谷崎は生来健康な体質だったにもかかわらず、青年時代から「死の恐怖」に苛まれたそうで、そこにはわたしの場合と同じく早世した母親(高血圧症ではなかったらしいが)の影響があったのではないだろうか。やがて40代のなかばに手首に隆起物が生じて動脈瘤を疑ったり、50歳前後には医師から脅されて禁煙したり、60歳になって血圧が二百を突破すると「自家血注療法」を試したり……といった具合に、あれこれの顛末はありながらともかく凌いできた。
ところが、63歳の秋にいよいよ深刻な予兆に見舞われる。庭を散歩中、飼い犬を呼ぼうとして名前が思い出せず、びっくりして今度は親族の顔を思い浮かべたものの、妻の名前以外ひとつも思い出せなかったとして、こう続けている。
私は狼狽して暫くこのことは誰にも云はず、独り書斎に引き籠つてじつとしてゐたが、幸ひ記憶の空白時間は長く続かず、二三十分で元に戻つた。しかしそれから一二時間の間、私の頭脳は嘗つて経験したことのない不思議な混乱状態に陥つてゐた。夢のやうな取りとめのない思想が浮かぶことは誰にでもあるが、その時の私の頭の中にはさう云ふ思想の糸が互に連絡なく、二筋も三筋も同時に流れた。ちやうど二人の人間の脳に浮かびつゝある妄想が、一人の人間の脳に浮かんでゐるやうな工合であつた。その離れ離れの、互に別種の妄想が頭の中に平行して動いて行くのが見え、甲の夢が描かれる同時に乙の夢が描かれつゝあつた。例へば一方では女と恋を語りつゝ、一方では机に向つて創作の筆を執りつゝある、この二つの幻影が同時に頭の中を占拠する。私には記憶の喪失よりもこの状態の方が一層不気味であつたが、いゝ工合にそれも一二時間で消えた。
不謹慎かもしれないが、さすがに文豪は違う、とわたしは感心してしまう。同じ病気ネタであっても、こちらはほんの表面を撫でるだけなのに対して、まさにその作用を自己の内奥深くまで掘り下げてみせるのだ。だれだってひとの名前を度忘れしたり、思考の道筋が混線したりすることはあるけれど、とりあえず苦笑いして済ませるところ、それをあえて女性と仕事のふたつの幻影が同時に頭を占拠する状態に譬えるとは! なるほど、そういわれると、自分にも思い当たる節が……。
このあと、谷崎はさらに激しい眩暈も加わって、作家にとって不可欠な視力を失う覚悟まで抱くに至った。もはや高血圧症の病魔から逃れられない運命を前にして、こんな言葉を書きつける。
生れてから六十六歳になるまで、病気の苦悩と云ふものを殆ど体験しなかつた私、――たまに寝つくことはあつても、半月もすれば軽快になるのが常で、心の底ではそんなに病気を恐れてゐなかつた私に、この時から長い、苦しい、悲しい闘病生活が始まつた。〔中略〕庭の植木の葉が風もないのに魔物のやうに戦(そよ)いで重なり合つたり離れたりして見えたが、それは眩暈がさせる業であつた。森閑とした部屋の中で、来し方のこと、行く末のこと、妻のこと、三十五年前に亡くなった母のことなどを考へると、ひとりでに涙が浮かんで来て、どうにもしやうのないことがあつた。青年時代の「死の恐怖」は、多分に空想的、文学的なものであつたが、七十歳に近い今日では、「死」は恐怖よりもひたすらに悲哀をもたらすのみであつた。自分が死のことを考へて泣いたのはその時が始めてゞあつたが、かう云ふ風に涙が湧いて止めどないのは、死期がさう遠くない証拠のやうに思へた。
凄絶である。谷崎がこうした思いに囚われた66歳とは、いまのわたしの年齢ではないか。もとより、ひと口に高血圧症といっても状況はひとそれぞれだろうから、必ずしも自分にそっくり当てはまるわけではないにせよ、だとしても、このことはいえるのだろう。谷崎が喝破してみせたとおり、おのれの病気に対しては年齢相応の向きあい方を知るべきだ、と――。病気もまた人生にとってかけがえのない体験なのだから。おそらくは、われわれがとかく病気ネタに執着しがちな理由もそこにあるのに違いない。
谷崎はこの文章をしたためた6年後、新たに『瘋癲老人日記』や『台所太平記』などの作品を完成させて、1965年に79歳の生涯を終えた。
0コメント