ショスタコーヴィチ作曲『交響曲第5番』

偉大な芸術家同士の
謎めいた関係


749時限目◎音楽



堀間ロクなな


 ドミートリイ・ショスタコーヴィチの『交響曲第5番』は謎めいている。



 このソ連(ロシア)が生んだ最大の作曲家の代表作は1937年、31歳のときに発表された。ときあたかも独裁者スターリンの大粛清の嵐が吹き荒れて、ショスタコーヴィチの近親者たちも強制収容所に送られ、パトロンだったトゥハチェフスキー元帥は逮捕・処刑された。そして、ショスタコーヴィチ自身、オペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1932年)やバレエ音楽『明るい小川』(1936年)などが当局から厳しい批判を浴びるというきわどい状況のもとで、革命20周年のメモリアルイヤーにあたって手がけた五番目の交響曲は、楽聖ベートーヴェンのそれと同じく闘争と勝利を謳いあげた作品として評価され、辛くも名誉回復のきっかけとなった。



 しかし、落ち着いて耳を澄ませてみると、明快な古典的交響曲の形式の背後には前進する主題をあたかも脱臼させるかのような仕掛けが随所に聴き取れ、後年、ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』(1979年)のなかの「わたしの交響曲は墓碑である」という言葉と呼応しあって、そこに込められた真意は謎に包まれたままだ。なお、この『証言』は本の成り立ちについて疑義が存在するものの、その内容には相応の信憑性があるものとわたしは考えている。



 『交響曲第5番』の初演は1937年11月21日、エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー交響楽団(現・サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団)によって行われた。作曲家より3歳年上の指揮者はその成功で一躍注目され、翌年、同交響楽団の首席指揮者のポストを得て、以後、半世紀の長きにわたって君臨することになった。その間に第5番を119回も演奏するとともに、引き続き第6番、第8番(ソヴィエト国立交響楽団)、第9番、第10番、第12番の初演も果たしている。



 もしも私が自分の生涯のおもな出来事について尋ねられたなら、私はそのアンケートの質問にこのように答えるだろう。

 一生で最も重要な出会いは――ショスタコーヴィチとの出会い

 最も深い感銘を受けた音楽は――ショスタコーヴィチの作品

 演奏活動において最も重要なことは――ショスタコーヴィチの作品の研究

 指揮者として最も困難なことは――ショスタコーヴィチの交響曲初演を準備したときの「産みの苦しみ」、障害そして抵抗



 のちにムラヴィンスキーが『ショスタコーヴィチの音楽とともに30年』(1966年)と題した文章で、みずからしたためた自問自答だ。まさしく運命的な出会いを遂げた芸術家同士のいかにも真摯な内面のドラマが窺える気がする。ところが、である。同じ芸術家同士の内面のドラマが、もう一方のショスタコーヴィチの側から眺めると、ずいぶん様相を異にするものだったらしい。前記の『証言』のなかに、つぎのような記述が見出せるのだ。水野忠夫訳。



 わが国の傑出した指揮者で、一九三八年から今日までレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者の地位を保っているムラヴィンスキイの言葉を、わたしに語って聞かせてくれた人もいる。彼はわたしのことをこんなふうに言ったそうだ。「ああ、あの道化のような狂信者は、どんな演奏にたいしても、『たいへん結構』と言うのだ」と。

 まず、ときどき思うことがあるのだが、このすばらしい指揮者(その才能をわたしは高く評価している)のほうこそ、わたしなんかよりも道化のような狂信者と呼ばれる根拠をもっているようである。わたしは彼の宗教ヒステリーのことを言っているのだ。〔中略〕必要とあらば、わたしはきわめてずけずけと自分の意見を表明できるし、表明してもいる。演奏についても、ほかの人の音楽についても、自分の音楽についても。 

 


 もとより、芸術家とは聖人君子である必要がないばかりか、むしろ一般のわれわれ以上に感情の振幅を持ちあわせた人種だろうから、相互のあいだに行き違いが生じることは決して珍しくあるまい。だとしても、自由な表現が許されない体制のもとで「一生で最も重要な出会い」をしながら、おたがいに「道化のような狂信者」と呼びあう間柄とはいかなるものだったのか?



 こうした両者の実情を伝える一冊の写真集が手元にある。その『ショスタコーヴィチ&ムラヴィンスキー 時間(とき)の終わりに』(アイエスアイ 1992年)は、ソ連時代にプロのオーボエ奏者とカメラマンという二足のワラジを履いたウラジミル・グリゴローヴィチの手になる貴重な記録写真を集めたものだが、タイトルとは裏腹に、50点ほどの写真のうち作曲家と指揮者のツー・ショットはわずか2点だけ。ひとつは1961年10月1日、『交響曲第12番』初演のステージにふたりがつくり笑顔で並び、もうひとつは1975年8月14日、68年の人生を終えて棺に横たわるショスタコーヴィチを72歳のムラヴィンスキーがじっと見つめている。



 それは、偉大な芸術家同士の関係があの『交響曲第5番』以上に謎めいたものだったことを証しているようにわたしには思えるのだ。


   

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とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍