クリント・イーストウッド監督『陪審員2番』

マッチョの対極にある
男らしさとは?


748時限目◎映画



堀間ロクなな


 男らしさとは?



 クリント・イーストウッドが俳優として、また、監督として突きつめてきたものをこのひと言に要約することができるだろう。その結果、さまざまなタイプのマッチョのヒーローが描きだされてきた。最新作『陪審員2番』(2024年)も同じ主題のもとに制作されたと思われるが、しかし、そこに登場するジャスティン・ケンプ(ニコラス・ホルト)はこれまでの主人公たちとはまさに対極にある人物像だ。かれが口にするセリフを手がかりとしてストーリーを追ってみよう。



 「妻が身重なので、できるだけそばにいてやりたいんだ」



 ジョージア州でタウン誌の記者をつとめるケンプは、州の裁判所から陪審員召喚状が届いて出頭した際、そう述べて辞退しようとしたものの却下される。そして、第一級殺人をめぐる裁判に「陪審員2番」として参加することになった。事件は、バーで酔っ払った荒くれ者が愛人に暴力をふるったあげく、悪天候にもかかわらず逃げだした相手を執拗に追いかけていって道路の橋から突き落とし殺害したというもの。被告は容疑を否認して、法廷では女性の検察官と弁護士が真っ向から対立する構図となった。



 「それが助言だって?」



 証人喚問が行われて事件当日の状況が明かされていくうち、ケンプは自分も同じ日に同じバーに立ち寄って車で帰る道すがら、土砂降りのなかで車体に衝撃を受け、鹿にでもぶつかったのだろうと放っておいたが、実は問題の被害者だったのかもしれない、と思い当たる。かれにはアルコール中毒で交通事故を起こした過去があり、いまは定期的に断酒会に通う身の上で、そこで知りあった弁護士に事情を打ち明けて助言を求めたところ、今回は危険運転致死か重罪謀殺で終身刑となりかねず、もし名乗り出たら人生が破滅するといわれて、思わず上記のセリフを洩らした次第。



 「もっとちゃんと話しあおうよ」



 やがて法廷での一連のプロセスが終了して、いよいよ12名の陪審員による評決の段階に入ったとたん、被告の凶悪な前歴に鑑みてあっさりと有罪の結論にまとまりかけたところで、ケンプだけがこんなふうに口を挟んだ。自分の疑惑には頬かむりする一方で、本当に無実かもしれない被告が断罪されることも受け入れられず、ともかくもあらゆる可能性について丁寧に議論することを主張したのだ。そこで、陪審員たちが仕方なく再検討を重ねるにつれ、図らずも、被告とは別に被害者を車で轢き逃げした真犯人の存在する可能性が浮かびあがってくる……。



 こうして眺めていくと、この映画の主人公はおよそ主体性がなく、自分が取る行動についてもいちいち周囲にお伺いを立てては墓穴を掘るという愚行を繰り返しながら、本人はそれにまったく気づいていないらしい。これは一体、何を物語っているのだろうか? ついには、こんなセリフまで吐いてしまうのである。



 「真実が正義とはかぎらないさ」



 いったんは被告の無罪に傾きかけたものの、陪審員たちは数日にわたって議論を積み重ね、特別許可を得てかれらによる現場検証まで実施したうえで、最終的に全員一致で荒くれ者の有罪を評決した。こうしてことなきを得たケンプだったが、いくばくかの自責の念やみがたく、後日、裁判所が被告に無期懲役の判決を言い渡すのに立ち会う。そして、勝訴を手にした女性検察官がいまでは自分に嫌疑を向けはじめているのを承知で、あえて挑戦するかのような弁をふるったのだ。その後の展開についてはネタバレを控えるが、いずれにしても愚の骨頂というべきだろう。



 いい子ちゃん――。つまるところ、主人公の立ち居振る舞いを一貫するものは、このリアリズムが支配する社会にあって、いい子ちゃんでありたい、という子どもじみたファンタジーだったのではないか? それこそ、クリント・イーストウッドが94歳にして初めて描きだした男らしさの正体だった、とわたしは思いたい。もとより、この稀代の映画人がみずから体現してきた男らしさの根っこにも、実はこうしたマッチョの対極にある、右顧左眄のいい子ちゃんが棲んでいたのだろう、と。 


  

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍